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ダウト 〜あるカトリック学校で〜のmogのレビュー・感想・評価

4.4
主演の3人の演技が圧巻。ミセス・ミラー役(ってHELPのヴィオラ・デイヴィスか、アカデミー女優を失認してしまった)の演技も素晴らしい。

もともとの舞台劇ではミセス・ミラーを含めた4人の役者だけで演じられるみたいだけれど、映画での説教のシーンの聴衆や、他のシスター、子供達の存在は映画に厚みを与えてると思う。

メリル演じる校長は最初あまりに不寛容(フリン神父のいうとおり)でむしろviciousとさえ言えるように見える。この辺の観客に感情移入させないピシッとした演技は絶妙。エイミーのイノセントな子供思いのシスターとのコントラストで余計憎らしく見える。ホフマンのフリン神父の演技も絶妙。子どもと関わっている時の演技は本当に絶妙でこいつ絶対ペドフィリアだろって思わせる怪しさをぷんぷんに出しながら、でも子どもを可愛がる優しい神父さんにも見えなくもない。ただ俗物なだけで子どもに手を出したりはしてないかもなってラインは保ってる。だから観客は神父の言うことをすぐ信じようとするエイミーのシスターに共感はできないまでも、メリルの確信の強さにもその強硬なやり方にも違和感を感じさせられる。その観客が感じている違和感は、エイミーによるあなたは神父のことを嫌いなだけだというメリルへの糾弾で高まっていき、直接対決の際の、窓から生徒があなたの手を払うところを見たからあなたを疑ってるのだ、と言うメリルの台詞で頂点に達する。

メリルは自分の確信と信念に従ってホフマンを追放するわけだけど、この最後の”I have doubts.” ですよ。そこまでは一切引かない、根拠なんかないのに徹底的にホフマンを確信を持って”疑い=doubt”続けたメリルが最後の最後でdoubtを口にする。ここでdoubtの意味がひっくり返るわけだ。いや、ひっくり返ってるのかどうかも微妙なところが脚本と演技の妙なわけだ。非常に多義的な、解釈の広がりがあるdoubt。初めてメリルが感情を表に出す、いやそれまでも怒りや戸惑いの感情はもちろん出てるんだけど、なんというか最後に、崩れるように感情が出てくるように口にすることで非常に印象的に物語が終わる。

ホフマンは本当に子どもに手を出したんだろうか、というダウト。いや、彼はやったに違いないが、だとしても私が彼を追放したことは正しかったのか、それはドナルド少年にとって良いことだったのか、というダウト(この論点を生じさせる母親との会話も物語に厚みを与えている。信念に従って正義を行うことは「被害者」を幸せにするとは限らないかもしれない)。それを行うために嘘をつくという私の行いは許されるのか、というダウト。彼女が持っていると告白しているダウトの中身はいかようにも取れる。彼を裁こうとしなかった司教すなわち教会へのダウトとも取れる。これは信仰の揺らぎにもつながる大きなダウトだ。

あるいは私が、彼に疑いを持った、持っている=I have doubt. ということ、そういう自分自身をここで見つめている、それを口に出して嘆いているとも取れる。ああ私は疑っている、とも。そしてそれは教会に対する不信とはまた別のもっと本質的な信仰の問題に直結してくる。仮に教会のあり方に疑問を持ったとしても、信仰とは神と自分との関係だと捉えれば自分の内なる信仰は揺らぐことはない。しかしこのダウトはその内なる信仰心に関わるダウトたり得る。

神を信じるということは信仰に根拠を求めないことだ。そして根拠なく信じること、それを貫くことが信仰の強さであるはず。

だからこそ断固たる決意のもとにホフマンを追い詰めるメリルの確信・信念の強さはまさに信仰心の強さの現れであるとしてここまで描かれてきたわけだし、その信念・確信が揺らいでいるという一次的な意味において、つまり最初に並べたいくつかの意味においてダウトを解釈したとしても、それは信仰心の揺らぎを示唆し得る。

でも彼に疑いを持ってしまったということが、根拠なく神を信じるという信仰のありかたに反するものだと気づいてしまったという最後の解釈を取れば、自分の信仰心を証明するはずの強い確信がまさにダウト=猜疑心であり信仰を否定するものだということに気づいてしまったということになる。

ここにおいて現れるのは彼が無実だったのではと疑っても、彼は罪を犯したのだと疑ってもどちらもそれは自分の信仰を脅かすという逃れようのないダブルバインドだということになる。

このダブルバインドの陥穽はまさにダウトという思考の様式そのものによってもたらされるのであって、ここにおいてエイミーの「信じる」というイノセンスが信仰にとって唯一絶対的な重要性を持つのだということが明確なコントラストを持って表現されているのだ。

そしてその純粋な信仰の象徴であるはずのエイミーの無垢さが決して魅力的なものとしては描かれておらず、むしろナイーブで頼りないものとして捉えられるように描いてるのもポイント。

そう考えるとダウトってのは、ジョン・パトリック・シャンディの、信仰それ自体へのダウトを表現した作品なのかもしれないとか思えてもくるな。

と、とくにキリスト教に関心があるわけでもない私にここまで色々考えさせてレビューを書かせちゃうこの脚本と演技は見事としか言いようがない。
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