もりぽよ

モテキのもりぽよのネタバレレビュー・内容・結末

モテキ(2011年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

苦しい。12年前の映画とはいえ男がみると苦しい。
仕事と趣味で意気投合したサブカルアカウントの人と会ったら長澤まさみだったら、好きになる。
ああ、この感じのSNSの初々しい夢物語的な世界観も含めて2012年。2012年とはこういう感じの空気感だったよなということを思う。童貞というワードに限らず、ぼっちとか、厨二病とか、インキャとかそういう強いワードばかりが、自分の実際の人生よりも、先行して知識として蓄えられ、僕は戸惑った。何者でもない中高生が次々にカテゴライズされていった。今でもそう言うものはもちろん残っているのだけど、当時は他の逃げ道が今以上になかったから、この辺りの世間的感覚にだいぶ狂わされたなという記憶がある。


映画の中で、嫌いなシーンと好きなシーンがある。

好きなシーンは、
主人公の藤本が好意を寄せている、長澤まさみ演じるみゆきがカッコ悪くなるシーンだ。フェス主催しているみゆきの彼氏が妻子持ちの男であることが判明し、それを今までも受け入れ続けていて、でも気持ちをわかってくれないことを吐露して、そのままのカッコ悪さを藤本にも見せてしまった。きちんと、「なんで私のことが好きなら、るみ子とせっくすしたの?」と言うシーンは、対話が行われており、正常に人間が作動していた。

嫌いなシーンは、
主人公の藤本が同じ職場の上司の真木よう子に、みゆきの彼氏が妻子持ちとわかった直後に、これからボーイズオンザランやるのかとかあいつより勝っているところあるかとか、お前は限られた人間ではないから黙って働けとか言われて罵倒されるシーンはすごく嫌だ。
この時代ってこういう男が極端に虫ケラみたいな存在で自己肯定感を蹴り散らすような表現が多かったように思う。大根さんはとくにそういうカッコ悪さを受け入れること自体のものがたりを作り続けている人だ。
いや、かっこわるさを描くこと自体は全然いい。だがこの映画においては蔑みすぎではと思ってしまう。それも、真木よう子に怒られる感じが男の妄想っぽくていやだ。まあ厳しい真木よう子くらいに言われないと響かないのだけど。


この映画の結末も、カッコ悪さがむき出しになる展開になった。フェス会場で3人が鉢合わせてしまい、みゆきが逃げて藤本が追いかけるシーンまでは良かった。藤本はちゃんとみゆきに向き合っているし、二人とも最高にカッコ悪かったから。
しかし泥まみれになって、あとから追いかけてきた妻子持ちの男を見てから、守るようにキスをするのはいただけない。
それがなんだか、「カッコ悪さっていいよね」みたいな結論に完結したようにうつった。
それは長澤まさみもろとも、奈落の底に落としてしまうようではないか。長澤まさみのことをもっとちゃんと考えたほうがいい。考えていたらキスはしなかったはずだ。結局自己満だ。
藤本は結局カッコ悪くしか生きていけないのか?カッコ悪さを盾にして今後も生きていくの?
それを自覚して生きている感じが最高に嫌いだった。
藤本はカッコ悪さも出せない話だったけれど、カッコ悪さを曝け出せばなんだっていいわけじゃない。異性はそれで受け入れてはくれないと思う。
お前みたいなタイプはちゃんと需要ある、って別の女性から言われてんじゃん。なんでその結末になるのだ。ちと子供っぽ過ぎはしないか。恋は人を狂わせるのか。藤本とは友達になれない。見てられない。
「藤本ってそういうやつだよね」という見方なのならいいが、エモ回収されているので違和感が走った。

ということを2024年に見ると感じた。
いや、とはいえ映画としては見事で、演出も、出演者の演技もめちゃくちゃ上手いせいで、感情を掻き回された。

カッコ悪いって大事ですね。
まだ自分はカッコ悪さを見せないように生きようとしてしまっている。
ある程度カッコ悪さを見せる(正直さ)のもエチケットだし、カッコ悪さを見せないのもエチケットだったりする。
カッコ悪さを一切見せない人は信用ができないけど、カッコ悪さとして自分を妥協している人はただカッコ悪い人になる。
なんて言う前に、僕の場合はもう少しカッコ悪さを見せなきゃいけない。

平成ってきもい時代だよなあ。
いまはまだ健全だ。
もりぽよ

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