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戦艦ポチョムキンのkeiのレビュー・感想・評価

戦艦ポチョムキン(1925年製作の映画)
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「....もし映画が単なる暇つぶしや居眠りの手段とみなされるなら、そのような傾向の欠如は、事なかれ主義へ連れ去ろうとする意図、現在あるものによって満足せしめようとする意図にほかならないと私には思える。映画は、善良で画一化されたおとなしい小市民を育成する宗教団体に似たようなものとなりつつある。こういうことのすべては、アメリカ式ハッピー・エンディングの哲学ではないだろうか?...」
(『エイゼンシュテイン全集 第2巻』「エイゼンシュテインについてエイゼンシュテインは語る」より)
このエイゼンシュテイン自身の言葉にもあるように、映画では、戦艦の兵士達であれ(戦艦を歓迎するシーンでの)オデッサの民衆であれ革新的行動を実行に移した者たちのいきいきとした姿が印象に残った。(A)

一方、
映画は1925年のロシア第一革命20周年記念祝賀祭における上演の依頼を受け作られたものだ。1905年における一連の革命的諸事件を取り上げる予定であった(結局撮影が紛糾しポチョムキンの反乱のエピソードのみに絞られたが。)ことからも伺えるように、当時の労働者(身分最下層)たちの屈辱的で隷属的な立場を序盤の戦艦の描写とオデッサの虐殺シーンで色濃く見せつけられる。(B)

戦艦とオデッサの両シーン、どちらも(順番は逆だが)上記2つ(A)(B)の要素によって成り立っており、物語ではなく特定の論理を刷り込まれているような気分になった。(プロパガンダ映画とはこのような性質のものなのだろうか。)
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