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ミスティック・リバーのyoucanのネタバレレビュー・内容・結末

ミスティック・リバー(2003年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

【かなり強い批判入り/この映画が好きな人は見ないことを推奨】


……この映画はヤバい。見終わった後の率直な感想としてこの表現以外が思いつかなった。まあ僕の見方が変わっているから自分自身そう感じただけなのかもしれない。だが、兎にも角にも一番最初に抱いた感想は「ヤバいな」だった。どういうヤバさかといえば、この映画がつまらないとかではない。むしろ映画としてはかなり完成度が高い作品だと思った。だが、それ以上に警告を鳴らしたい作品だと僕は感じた。この映画は、見た人の潜在意識に悪影響を及ぼす。そう感じる映画だったと言える。そして怖いことに、この映画の評価を見てみると軒並み高い。なんということだと思った。これは監督の意図してのことななのか、それとも別の誰かの意図が入ったか、偶然の産物なのか。分からないが、ひとまずこの映画から感じた絶妙な気持ち悪さを語っていきたい。

まだ一回だけしか見ていないからそう感じたのかもしれないことを踏まえた上で語らせて頂くが(2回目見たら全然評価が変わるかもしれない)、この映画を見た時、「最初原作は小説なんだろうな」と感じた。案の定原作は小説で、小説として読んだならこの作品は凄く面白いだろうとも思った。後味の悪い小説なんていくらでもあるし、こういった終わり方もある種「小さな町で起こった小さな事件」と「大きな勘違い」のクロスオーバーな作品だと受け入れることができる。だが映像と音楽が加わり、そして腕の立つ監督の実現力が混ざると、後味の悪さがここまで際立つものとなるのかと思った。それならいい。後味の悪いだけの作品なら僕は好きだし、むしろストレスを感じれば感じるほど「その映画に没頭できた」証であると捉えている。だから映画の「見ていてあのキャラに凄く腹が立った」「主人公の鈍感さが許せなかった」等は、逆によりキャラの生々しさを描き切っていて賞賛すべきものだと思う。だが、見終わった後気持ちが悪くなった映画なのは多分これが初だと思う。イライラ・不公平・不平等・虚しさ・悲しみ。そういった感情を度外視してこの映画はヤバい。洗練されすぎて逆に怖くなったほどだ。
具体的に書こう。一番「は?」となったシーンは、ケイティが発見されたシーンだ。遺体としてケイティが発見された時、それまで不穏な雰囲気だったにも関わらず、明るい音楽が挿入されたことだ。讃美歌のような、そこまで神々しさを混ぜてはいないものの、比較的ポジティブな音楽が流れた。僕は思わず息をのんだ。え? と思った。わざとかとも思った。おそらくはわざとなのだろう。前後の会話で「彼女は神のみもとに還った」云々のやり取りがあったため、なるほど彼女の魂がキリスト教よろしく戻っていったことを示しているんだろうなあと納得することにした。だが、讃美歌が全てポジティブなわけではない。暗い雰囲気を醸し出す讃美歌なんていくらでもあるし(天国で、たしかに天国で という讃美歌なんて特にそうだ)、ないなら作ればいいだけだ。映画挿入歌なんだから。だが、ここでは明るい音楽が挿入されている。よくこれでGOサインが出たなと本気で思った。例えばこれがガチサイコパス系の映画なら特に違和感はない。しかし、この映画は終始誰かが狂っているわけではなく、偶然に偶然が重なって不運な歯車がギシギシと回り、最終的にケイティが犠牲になったというオチだ。なんだ、と思った。映画という枠を超えて、なんだか不気味なものを感じとった。映画全体の作りとしては全く問題ないのに、細部をのぞき込んでみると「なんだこれは」と感じるようになっている。モザイクアートみたいだ。遠くからみると一つの作品なのに、細部は「各々別の何かから」成り立っている。監督の高い技術、小説としては面白い作品、高い演技力、キャストが持つ自然な立ち振る舞い。ここまでの要因は全て完成度の高い映画に繋がるのに、しかしたったひとつの挿入歌がやたらと違和感を引き立ててくるのだ。この挿入歌はもう一か所使用されている。終盤、ブレンダンの弟レイが暗い部屋の中映されるシーンだ。ケイティ死体発見時の時と同じ曲が使用されたため、ある意味劇中歌で「コイツが犯人ですよ!」と言っているかのように感じた。特にこのシーンも明るい場面でなかったため、違和感を感じる場面ではあったが、なるほど、同じ曲を「被害者」と「加害者」で使うことである関連性を提示しているという見方をとれば、この挿入歌が採用されたことに関しては「まあそういう作品なんかな?」と思うだけで済んだ。
だが気持ち悪さを感じるのはこの音楽を挿し込んだ部分だけではない。絶妙な気持ち悪さがその外にも内包されている。
ここがまた難しいところなのだが、「気持ち悪い」のではない。「絶妙な気持ち悪さ」なのだ。ひとつひとつ単体で見る分には大した事象でなくとも、大局的に見れば、口にまで出てこないが喉奥にまで這い上がってきている、そんな気持ち悪さがあるのだ。
まずはデイヴの奥さんことセレステがジミーにチクるシーンだ。「デイヴがやったのか」という問いに対して首を縦に振ってうんうんと頷くシーンがある。デイヴが死ぬ大きな要因になっているシーンで、セレステがその後自分の過ちに気づいて「なんてことを言ってしまったんだ!」と後悔し、いとこことアナベス(シミーの奥さん)に言うシーンがあり、そこはそこでまあまあ腹が立つシーンなのだがそこは置いておこう。
自分の旦那を地元で有名なワルに売った。
文字面に起こすと凄い文章だ。確証があるならともかく、特にそういったものは無いけど物凄く怪しいから密告した。相手はムショに入ったこともあるヤベー奴で、いつもつるんでいるお仲間も明らかにカタギじゃないことは見れば分かるし、いとこの旦那なんだからある程度のことは知っているはずだ。しかし売った。売った結果どうなるか知らなかったわけがない。密告し、後になって「チクったのはやっぱ失敗したかもしれん」と反省し、デイヴを探すシーンに繋がる。ここが良くないシーンだと僕は思った。
「いやいや、途中でセレステ言ってただろ。デイヴの様子が変わって怖いってさ」
そういう弁明が成り立つとも同時に思うが、僕は、だとしたらそれは視聴者をバカにしすぎだろとも思う。
果たしてこの映画、「デイヴ」が犯人だと思った人は何人いるだろうか。最初は思った人がいるかもしれない。だが、途中から見ている人はこう思ったはずだ。「あ、これ。デイヴ犯人じゃないな」と。
タイミングは各々違うと思うが、「デイヴは怪しいけど恐らく犯人ではない」という結論に途中で達していると思う。恐らく視聴者の9割はそう思ったはずだ。俗にいう怪しすぎて逆に怪しくないというやつだ。ここまであからさまにデイヴがやったかもしれないよーんと見せつけられると、多分違うんだろうなあと思うのが視聴者だ。もっと具体的に言葉にして説明するのならば
幼き頃の友人の娘がバーで踊っていて目障りだったという理由から、外へと誘い出し拳銃で撃った後殴り殺して遺体を放置した。もしそんなことができるのならば彼は幼い頃性被害に合ってなどいない。生来持った性格が気弱で暴力を震えないタチだったからこそ逃げることから時間がかかり、かつ別人格を作り上げて心のトラウマから自分を見守ってきたのだ。
ゆえに彼はそこまでの度胸が無い。
ジミーの娘を殺してはいない。
ティム・ロビンスの演技が上手すぎてセリフが無くてもそこまで感じ取ることは映画を真剣に見ていれば誰でもわかる。だからコイツはなんとなく犯人じゃないんだろうなと、演出でどれだけ怪しくしてもそう思えてしまうのだ。だが物語の都合上奥さんはそこに鈍感になり、ジミーにチクるという行動に出る。ここが違和感のポイントなのだ。ある特定のキャラに物語の都合上死んでもらうというのは映画に限らず、ドラマでも漫画でも、ゲームにだっていくらでもあるものだからそんなとこ別に気にしなくてもいいだろうと思うのが普通なのだろうが、この映画に関しては違う。僕は「こうすればリスク無しで誰かを殺すこともできますよ」という一種の手引書のように感じたのだ。この映画のまずいのは結末にもある。ジミーも、奥さんも、アクベスも罰せられずに終わっている点だ。映画終わった後の話では警察官ことショーンにしょっぴかれたと思いますよ、という意見もあると思うし、セレステやアクベスはともかく恐らくジミーはムショにぶち込まれるのだろう。あるいはセレステと息子宛てに送金が始まるのかもしれない。だがそんな終わった後のストーリーの話なんてどうでもいい。この映画が捕まらなかったところまでを区切りにして終わったということが気になったのだ。また、最後にショーンの奥さんが戻ってきてちょっぴりいい話っぽくなっているのも気持ち悪さをウナギのぼりにしている点だ。暗闇しかなかったこの映画の中に一筋の光を入れた気かもしれないが、かえってジミーのやった罪やデイヴの報われなさがなあなあになってしまっていて、変な後味にしてしまっている。まるで「色々罪が重なっちゃったけど、まあいいこともあったし良かったじゃん」とでも言われている気分になった。ジミーの奥さんアクベスも殺人を容認しているし、なんか気分が昂ったのがヤり始めているし、チクった奥さんは罪悪感を感じているから許してやろうという雰囲気になっているし、ジミーはスッキリしたのかなんかご満悦な表情だ。

「え?」ってなった。

レイと友達のジョンは銃で遊んでたらたまたま発砲してケイティに当たり、「やべえ!逃げるぞ!」と口封じのため追いかけてホッケースティックでタコ殴りだ。誤解をしている人がいるかもしれないから書いておくが、弟のレイは「兄がケイティと一緒に海外に行くのを阻止したかった」からケイティを殺したのではない。たまたま友達と拳銃で遊んでいたら、たまたま車でケイティが通りがかって、脅そうと思ったらたまたま誤射し、肩に当たって逃げようとした被害者を殺したという話だ。殺した理由は無い。
つまり物語の都合上の死んだのだ。なぜ? 伝えたいメッセージがあったからだ。それは何か。
世の中こういった不条理なことがあるんだ、という内容なのだろう。
だが、この映画。ジミーもセレステも反省している振りは行っていて、真犯人はパニック状態になってその後の描写は無し、ショーンは幸せ。まあこういったこともあるよと言わんばかりのラスト。
悪いことをしたって有耶無耶にできるよ。そういう意味合いを潜在意識に刷り込ませてくる気さえした。どれだけセリフ上
「心に触れさせて」
「あの時車に乗っていたのがデイヴじゃなかったら」
「愛していたのに」
と綺麗な言葉で着飾っても、物語全てを通してこの作品を見た時に最後に残るメッセージは
「ああ!車に乗らなくてよかった!やっぱり友達を犠牲にしてでも自分が幸せにならなくっちゃね!」
ケイティは死んだし、ジミーはそう感じていないだろう。
だが、この映画を見た人にとってケイティなどただの登場人物だ。デイヴもそうだろう。下手くそな選択肢を選んだからカマホモに掘られて、自信がモテない人生を歩み、奥さんに裏切られて勘違いされた友人に殺され、しかもその奥さんや友達、黙認した友達の奥さんは映画上では罰せられず、死んだ奴ら以外はこれからもなんとか生きていくよ!というエンドなわけだ。

罰ゲームが決まった席に座ったのがたまたまデイヴだった。

物語の意味のある死でもない。とりあえず死んでもらった方がストーリー上不幸感が増すからキャラとしてはここで死ぬべきと。物語の都合上による死だ。
そして。ケイティも完全なる被害者だが、その遺体は「神のみもとに還ったのじゃ!だからいいんじゃ!」と言わんばかりの明るめなBGM。

結論を書こう。この映画の概要はこうだ。
「人にはそれぞれ自分にしか分からないことがあり、中には触れてほしくないトラウマや消したかった過去が含まれているかもしれない。そういった人間の誰しもが抱える弱い面を、この時たまたま不幸が重なり、小さな町で小さな事件が起こってしまった。何かが悪かったというわけではない。偶然が偶然を呼び、再びいたたまれない不条理で不平等で不公平な死を引き起こしてしまった。悲しい事件だった。こういったことが、我々はニュースに取り上げられないからよくは知らないけど、探せばいくらでもあるんだよ」
そしてこの映画を構成している細部、僕が映画を見て素直に思った感想だ。
「だから、何か悪いことが起きそうだったら、まずは自分を優先しろ」
だ。
そんなこともちろん言っていない。しかし、映画のストーリーという枠を超えてこの「映画」から後味の悪さを表現するなら上記のような言葉になるのだろう。自分を優先するのが悪いことかどうかをさておき、映画全体がそれを助長しているような作りになっているのが僕は気に入らなかった。映画というツールの悪い使用例のように思えたのだ。結果として、ジミーは警察の捜査よりも自分の手で復讐したいということを優先した。セレステは夫のデイヴと話し合うことより自分の気持ちを優先した。アクベスもデイヴの命よりも、ジミーの行動よりも、真実よりも自分の今後の身の上を決める上で何が一番正しい選択かを優先した。そして幼い頃のジミーとショーンは罰ゲームがわかっていた席に決して座らなかった。自分の身可愛さを優先した。誰かと話し合う、相談する、本当のことを追う。それをないがしろにして自分のやりたいこと、勝手に求めている都合のいい立ち位置・未来を優先し、それを恐らくは意図せずしてこの映画は助長していることになるのだ。自己都合を優先した結果、物語は無事終わったという、あくまで小さな事件として扱われたことがラストパレードで物語っているのだ。

原作者デニス・ルヘインが書いたシャッターアイランドは面白かった。悲しい終わり方だけど映画として面白かった。
クリント・イーストウッドのアメリカンスナイパーもノンフィションとはいえ映画として凄く面白かったし、また見たいと思った。
だがこの映画は、映画としての出来栄えは凄く高いけど、純粋に嫌な作品だと思った。サブリミナル的に悪を刷り込まされるかのような違和感が残る映画だった。

まあここまで考えて見てみると僕みたいに違和感を感じるかもしれませんが、そこまで深く見入らなきゃアリかもしれない。
なので2点!
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