Jeffrey

金閣寺のJeffreyのレビュー・感想・評価

金閣寺(1976年製作の映画)
3.5
「金閣寺」

冒頭、列車がトンネルを通過する。車窓から外を眺める学ランの青年、溝口。線路を、河原を、浜辺を歩く。父との回想、黄昏の美、吃音、色と白黒の二構成。今、細やかなクーデターを起す…本作は三島由紀夫原作の金閣寺を高林陽一がATGで監督した昭和五十一年の秀作で、この度アートシアターギルド特集をするためDVDを購入して久々に鑑賞したが素晴らしい。残念ながらキネマ旬報では圏外の十九位と言う結果になってしまったが、私個人としては好きな方である。無論高林と言えば前作のATG作にして、ギルドの興行記録を塗り替えるとともに角川映画の「犬神家の一族」で横溝ブームを巻き起こすきっかけとなった「本陣殺人事件」が大傑作であるが…。その後にもギルドでは「西陣心中」も立て続けに撮っている。


西陣心中を撮るくらい、京都に本拠地を構えて、異色の作品を撮り続けてきた高林は京は西陣のはずれの帯地商を生家としているのは有名な話だ。かれこれ大林が亡くなって八年以上が経つ。彼の初期の実験的な映画はまだ見たことがないが、ヘラルド配給にて興行的に成功した「すばらしい蒸気機関車」から「飢餓草紙」などは観てきた。たくさんの作品を撮っているわけではないが、アートシアターギルドと言う貧しい母体で市川崑の傑作"炎上"(三島由紀夫原作の金閣寺)が既に誕生しているここ日本で、再度映画化すると言う勇気は良い意味で変態である。そうすると大映の見事で魅力的なセットがないこの時代に二千万映画として数々の傑作を輩出してきたATGの中でも「本陣殺人事件」の圧倒的な美術は誰もが魅了されたと思うが、その美術監督の西岡が、この作品でも大いに活躍している。金閣寺=金閣寺で撮影できる事はまず不可能である。なので必ず美術やセットが組まれるのが常識だが、ギルドの作品の中ではそんな高価なものは作れない。

そういった中でこのクオリティの高い作品を撮れたのは監督はもちろんのこと西岡美術監督の力量もあるだろう。ところで、後に高林の西陣心中で主演に抜擢される島村佳江が本作でも少ない場面だが、有為子としてインパクトを残している。炎上とは違って重苦しい想念が解き放たれていて、生々しくトラウマになるほどの映像が積み重なっている分、ギルド作品らしくなっていて私は好きだ。孤立した精神が金閣の絶対の美に支配されていく溝口の姿が半ばアントニオーニの作品のように淡くどんよりと曇った映像の中で丹念に描かれており、超現実的なイメージ映像とは違って、虚構性の中の拒絶を溝口がしているように思える。それは市川版の金閣寺(炎上)とは全く以て違っており、自ら人間関係を断ち切ろうとして、孤独な想念の中で金閣寺を放火するに至っている溝口をこれまでかと言うほど独特に描いている。


金閣寺は市川崑の「炎上」に続いて二回目の映画化で、この作品に関してはカラー映像とモノクロを使い分けており、製作から六年前の昭和四十五年に自決した三島と同じ時代に作られている分、かなり監督の力量が感じ取れる映画になっている。三島がご存命だったらこの作品をどのように評価したか気になるところである。本作は溝口の母親を演じた市原悦子の濡れ場のシーンや芝居がすごくて見入ってしまう。市原と言えば同じくギルドの長谷川作品「青春の殺人者」でも主人公の息子の母親役を演じていたが強烈なインパクトを残していた。生花の師匠として和製ブリジット・バルドーの異名を持つ加賀まりこも出演している。

本作は昭和二十五年の金閣寺放火事件を題材とした三島由紀夫の名作を映画化したもので、金閣寺と心中するつもりだったと後に述べた学生による放火事件である。そして三島由紀夫の自伝を含めた力作であると言う見方もされているー品で、ある意味、三島の衝撃的な最期を予告していたと文を読む限り、そう言われているそうである。それにしてもあれほどまでの傑作を作った市川崑の炎上を再度映画化(厳密には金閣寺三島の)しようとする大林監督の勇気には拍手喝采。俺が監督で三島の金閣寺を再度監督しようなんて絶対に思わない炎上がある限り…。

さて、物語は幼い頃より重度の吃音に悩まされ、暗い青春時代を送っている青年、溝口。彼は金閣寺を知った時から、美の象徴として憧れを抱くようになる。大学で友人の誘いに乗り、出会う女性たちと関係を持とうとするが、常に頭に浮かびあがる金閣寺の幻影が支障となりうまくいかない。ついには金閣寺を征服すると言う意識を持つようになり、溝口は金閣を焼かねばならぬと言う想念をつかむに至る。本作は冒頭に、太鼓の音が聞こえる。そして木魚が耳に入る。画面はひたすら黒を基調としてスタッフとキャストが紹介される(その間鼓動のような音がひたすら聞こえる)。カットが変わり、汽車がトンネルを通過するファースト・ショットで始まる。そして列車の車窓から外を眺める一人の学生、溝口の姿がある。彼は手に持っているおみくじのようなものを読む。カメラはそのおみくじを手で切り刻み、弁当を食べるショットへと変わる。そして汽車がトンネルに入る。続いて下車した溝口はトイレに向かい鏡で自分の顔を見て表情を作る。カメラは田舎町を捉え、線路を歩く溝口を映す。

続いて、橋の下の河原の砂利の岩に座り込み風景を眺める溝口、次の瞬間、砂浜を歩く場面へ。カメラはその足元を捉えて砂に埋まっていたトランペットを手に持つ溝口を映し、彼は口をつけて吹こうとするが音が出ない(波の音が強調される)。カメラは溝口の表情をズームする。ここで物語は"永遠の金閣寺の美しさは永遠のものだ"と言う父親の言葉と共に回想が映し出されていく。吃音コンプレックスに悩む青年、溝口は少年の頃から住職の父に金閣ほど美しいものはないと教えられ、金閣に魅了されていた。彼は少年の頃、初恋の女性に話しかけようとするが言葉にならず、冷たく拒絶されて溝口は彼女の死を願うようになる。彼女は脱走兵の恋人をかくまったために射殺されるが、溝口の心の中に彼女の姿は生き続ける。父の死後、彼は金閣寺の門弟となり、老師の計らいで大学にも進学し、そこで足の悪い美青年、柏木に出会う。溝口は悪の臭いをまき散らす柏木の誘いで、様々な女を抱く機会を持つが、そのたびに突然現れる金閣の幻によって彼の性は妨げられた。いつしか溝口は、自分の心の中を占拠していく金閣を憎むようになり、ついには寺に火をつけるに至った…と簡単に冒頭の説明をするとこんな感じで、やはり炎上でも美術を担当した西岡の仕事が素晴らしいとわかるー本だ。唯一の共通スタッフと言えるだろう。予算上金閣寺を建てる事はまず不可能なのは誰もがわかることで、苦肉の策として頂上の金色をした鳳凰を象徴させる演出は天才的である。その鳳凰はクライマックスで金閣寺以上の主役をなしている。


いゃ〜、溝口を演じた篠田三郎は相変わらず二枚目だ。俺こういう顔立ちめっちゃ好きだわ。そもそも彼を知ったのは実相寺昭雄のアートシアターギルドの傑作中の傑作「哥」である。クライマックスの金閣寺が燃える場面の演出はなかなか凝っていて、高林らしさが感じ取れて非常に評価できる。また篠田三狼の恨みの独白は「哥」と重なる。んで、本作は不意にカラーから白黒へと転換されていくのだが、モノクロの世界では溝口は吃音になる。そして白黒の映像のときには終始重低音の太鼓の音ようなドゴーンと言う音が聞こえる演出をしている。これがいわゆる、空虚感と緊張感を生み出している点だ。さて、印象的に残ったシーンは、抹茶に着物姿の女性の乳首から母乳を注いで飲むシーンは強烈。市川崑の炎上と違ってヤンキー(米国兵士)の娼婦の女が妊娠している体で突き飛ばされるのとは違って、本作では米兵が足で踏みつけると命令して繰り返し踏みつける。そしてその娼婦が寺までやってきて強烈な関西弁で金を巻き取る場面も映される。そんでびっこの柏木が老婆との性行為は大島渚の「愛のコリーダ」のワンシーンを思い浮かべてしまうほどインパクトがある。

そういえばラッパの場面は原作には無く、高林の創作である。そういえばこの作品にインパクトな場面がもう一つあった、それは敗戦に突入した日本の最中、太陽の下で一人の陸軍士官が切腹する場面だ。これは誰がどう見ても三島の割腹自殺にだぶらせたイメージを彷仏とさせ、敗戦日本をこのようなワン・ショットで知らしめるのは風変わりで稀なことだと感じる。また金粉が舞い上がるラストを逆光でとらえたカットで、全焼する金閣寺(鳳凰)をシンボライズしている点は凄い。また地蔵が目玉を抉られる場面も脳裏に焼き付く。最後に余談だが、島村佳江の息子はジャニーズjr.として活躍している。高林陽一は原作の精神に忠実に主人公の溝口の内面世界を描こうとイメージ・ショットを積み重ねて丁寧に描写していて、個人的には嫌いになれないー本だが、世間一般的には普通の評価である。気になった方は見てみると良い。
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