大傑作である。
まず、黒澤には、女が描けないという定説が世に蔓延っているが、それは嘘だ。
なぜなら、本作では、女が描けているからだ。
所謂、映画を語るときに、よくいうところの、女が描けていないという定義は、つまり、性に対して成熟した女という、ある種の限定された女性像を念頭に置いての定義でしかない。
しかし、本作には、まぎれもなく女が、描かれているのだ。
つまり、童女(純粋無垢というべきか、姿形は大人なんだが少女性を保っている女性というべきか。)を描くと上手いのだ。
これは、「素晴らしき日曜日」の主人公の女だけのことではなく、「静かなる決闘」での主人公の医者のフィアンセだった女にしても「醜聞」の声楽家の女にしても、ある種の童女、少女性を持っている女として描かれているわけだが、群を抜いて「素晴らしき日曜日」の主人公の女は、童女なのである。
ここまで、純粋無垢な女を描ける監督はいるか?
私は、これまで黒澤を甘く見てました。ちゃんと女が描ける、いや、最高の童女が描ける監督ではなかろうか。
さて、所謂、一般的な男からすれば、性的に成熟した女に魅力を感じるわけだが、同時に童女性(少女性)にも引かれるわけである。つまり、男というものは、時には、童女のようでもあり、時には、娼婦のようでもある女というものに一番魅力を感じるのではないか。
逆に言えば、女性というのは、セックスでは娼婦のように淫らであるが、ある面では、少女のように純な顔をのぞかせるような生き物ではなかったか。
そのような生き物が女性の本質ではなかろうか。
私はそう思う。
黒澤は、娼婦のような淫らな女は描けなかったかわりに、童女を描いたら天下一品だったのではなかろうか。
つまり、黒澤ヒューマニズムにおいての、女の描き方は童女でなければならなかったわけだ。
そう考えれば、黒澤は、女のある一面(童女の面)を描くことにおいては、完璧だったのだ。
よって、黒澤は女を描けない監督という定説は間違えであると私は本作を見て断言する。
なんか、女とは、というような話になってしまったが、黒澤は女が描けないのではないかとこれまで思っていた俺が「素晴らしき日曜日」を見て、まず驚いたのがそこだったのだから、まずは、女の描き方の話になってしまったのは、仕方がない。
本作は、主人公の女の描き方ひとつにまずグッときた。
そして、タバコだよ。シケモクね。
冒頭とラストでシケモクが地面に落ちている。
この冒頭とラストシーン。
ドン・シーゲル監督の「マンハッタン無宿」のタバコの使い方と同じ効果を示している。勿論、本作の方が製作年月は早いわけだが、全く同じタバコの扱い方(つまり、主人公の男の成長をタバコ一本で示す)に驚く。タバコという小道具ひとつで映画は豊かになるというお手本だ。
もうひとつ、映画の中から外の観客に話しかけるという手法。これは、誰が最初にやったことなのか知らないが、少なくとも黒澤は早い。47年製作の本作で既にその手法を試みているわけだから。このスクリーンの中から外へのコール&レスポンスは、後のウディ・アレン監督の「アニーホール」をはじめ、様々な映画が試みている。
さて、本作は、まだまだ語りたりないくらいの大傑作なわけだが、最後にもう1つだけ指摘して、この感想文を終えることにする。
雨だ!
黒澤映画は雨だ!
もっとも重要な黒澤映画のポイント、それが雨だ!
本作「素晴らしき日曜日」での雨はどこで使われるか。本作で、そこを見てほしい。
本作のキーポイントは雨のシーンなんだよ。
優れた映画は、雨のシーンがキーポイントになる。私が敬愛してやまない、ウディ・アレンの映画は、いつでも雨のシーンが美しい。
この「素晴らしき日曜日」も雨のシーンなのだ。
雨が振りだす。そこで、主人公の男と女は、それまでと少し変わるんだ。
これ以上は言わない。未見の人は見てくれ。