デフォルメされてはいるものの、もしくはデフォルメされているからこそ、男性性が女性性を求めるときの(そして女性性が男性性を受け入れるときの)、1つの明るさのようなものがうまく描かれていたように思う。
また、ここで言う女性性とは女のことを、そして男性性とは男のことを必ずしも意味してはなく、女のなかにも男性性はあり、男のなかにも女性性はある。
短期記憶障害になった1人の女(ルーシー:ドリュー・バリモア)を、1人の男(ヘンリー:アダム・サンドラー)が求め続ける話。
ルーシーは映画『シックス・センス』を何度観ても、同作のネタバレ的な箇所でいつも「はぁぁ…!」と驚くことになり、プロット的には、その障害がどんなものであるかを可笑しみをこめて描くのと同時に、象徴的には、いつでも世界の鮮やかさを鮮やかなままに受けとる無垢(イノセンス)として描かれてもいる。
そのため、映画としては恋愛のように描かれてはいるものの、映画体験として振り返ってみたときに僕の心を満たしたのは、恋愛感情を枝葉のように振り落としたあとの無垢(イノセンス)の姿だった。
無垢(イノセンス)とは、汚れを知らないことを意味しているのではなく、鮮やかなものを鮮やかなままに感受できる、感受性のことを意味しているように僕には思える。ささやかな経験として言えることは、汚れを知っているからこそ鮮やかに感じられることも数多くある。またそれは間違いなく、明るさのなかにしか姿を現さない。
ヘンリーが何度忘れられたとしても、何度でもルーシーにアプローチした理由はそこにこそあるように感じられ、だからこそヘンリーは、反復するしかない関係を肯定することができた。恋愛感情のもたらすものが、ときとして否定や破壊であることを思ってみるならば、ヘンリーは、彼女に恋をしていたわけではないとも言えるかもしれない。
ラストに描かれるアラスカの氷の海の上は、おそらくは様々な男女が、それぞれに見てきたものではないだろうか。ビデオレターを撮るように2人の関係を丁寧に確かめあいながら(ヘンリーもまた自分自身で確かめていたはず)、たとえば海洋探索という自分のフィールドで、精一杯に示せる世界を分かち合おうとしながら。
ホモであれ、ヘテロであれ、トランスであれ、性を媒介とする関係のなかでしか姿を現さない世界像はきっとある。そしてヘンリーもルーシーも(僕も)たぶん何度でも思うのは、世界が祝福されたものであるということだろうと思う。反復することを受け入れていった先で、本当の意味での明るさのうちに祝福されていることを。
そして強さとは、何度でもイノセントを蘇らせることであり、明るさを明るさとして受け入れられることのようにも思う。暗い鈍さのなかで、痛みを忘れていくことでは決してない。