青雨

シャッター アイランドの青雨のレビュー・感想・評価

シャッター アイランド(2009年製作の映画)
4.0
この『シャッターアイランド』は、ジャンル的にはミステリーかもしれないものの、内容としてはほとんど文学作品に近い。ですから、ラスト近くで明かされる真相は、それほど重要ではないように思える。むしろ、真相や結末を踏まえたうえで、主人公の苦悩の現れかたを観ることにこそ、僕にとっては深い味わいがある。

また、ディカプリオを見ていつも心が動かされるのは、スマートな人がそのスマートさゆえに、一生懸命にスマートさを捨てようとする姿にある。誠実で頭の良い人は、一周どころではなく、何周もしているように僕には思え、そうした演者の苦闘が、役どころとオーバーラップして見えるところにも本作の魅力を感じる。



主人公が実は犯人だったという典型は、ほとんど古典様式のようになっているため、様式を云々してもはじまらない。むしろその様式をどのように使い、何を語ろうとしたのかが重要だろうと思う。

再鑑賞しながら、僕が真っ先に思い浮かべたのは、アントン・チェーホフの短編『六号病棟』だった。『六号病棟』では、ある医師が精神病患者と関わりを深めていくうちに、やがて患者になってしまうというもの。その医師は鬱屈とした周囲の社会よりも、元は貴族で深い教養をもった患者との会話に明け暮れるようになる。そして徐々に、周りから正常さを疑われ、最終的には患者として、自身が院長を務めていた医院に収容されてしまう。

これは、どこかフランツ・カフカの作品にも通じるもので、『変身』や『城』では、僕たちが素朴に信じている秩序や常識や正しさなどの社会通念が、ある日まったく正反対になってしまうことがありうることを描いている。

こちら側/あちら側

普段、僕たちはこちら側にいて「/境界」を強固なものだと信じており、法治国家においては、法を犯さないかぎり「/境界」のあちら側には行かないことを前提として日々を生きている。

しかしながら、ある種の誠実さのなかに生きようとするほどに、ふと気づけばあちら側にいることがある。1枚の画像が徐々に変化していく、モーフィングのように。そして、気づいたときには、こちら側/あちら側の間に存在した境が探し出せなくなっている。

その鍵になるのは、誠実さのように僕には思える。誠実であろうとするほどに、人の心は知性や公平さを自身に求めるようになっていく。ポイントは周囲にではなく、自分自身にという点にあり、知性や公平さは、認識や価値の相対性を自覚するように、自分自身を導いていくところがある。

結果として、相対性がこちら側/あちら側の重みを等しくしていき、その境が曖昧になっていく。また、重みを増す相対性と反比例するように、立ち位置の絶対性は薄まっていく。いっぽうで、それらを見つめる眼差しの絶対性は深まっていく。

これはちょっとした逆説のように思う。

カフカの『変身』に描かれる、青年グレーゴル・ザムザが目覚めると虫になっていたのも、『城』の測量師Kが、不条理な城下町にやがて飲み込まれていくのも、『六号病棟』の医師アンドレイ・エフィームイチが、精神病患者のほうに正常さを感じていくのも、すべてそうした「/境界」の消失および、立ち位置の相対性と、まなざしの絶対性に関する逆説を描いている。



『シャッターアイランド』に描かれる連邦保安官テディ(本名:アンドリュー・レディス)もまた、知的な人物として造形されている。また、ある種の誠実さのなかに生きている。

アパートに火をつけたのち、湖畔の家に引っ越してから3人の子供を湖で溺死させた妻ドロレス(ミシェル・ウィリアムズ)。その鬱状態の妻に対しても、子供たちに対しても、自責の念に生き続けている。自らを責めているのは妻を拳銃で撃ったことだけではなく、本質的には、夫や父親として目をそらしてしまったことにある。

誠実さや公平さを欠いていたことを、誠実で公平であるからこそ、彼は重く受け止めた。結果として、彼が見る幻視のなかで、火と水が印象的に現れることになる。また、ナチのダッハウ収容所へは実際に従軍しているものの、院長(ベン・キングスレー)が灯台で語るところによれば、殺戮に関しては体験していない可能性もある。その場合、ナチのように子供を殺めさせてしまった妻に対して、さらに自身の手で殺めてしまったことへの、二重の自責として現れていることになる。

この火と水の幻視世界の美しさは、まるでアンドレイ・タルコフスキーのようであり、妻と娘のレイチェルが2人並んでこちらを見つめるシーンなども含め、たぶんオマージュ的に撮っている。タルコフスキー作品もまた、郷愁と贖罪に彩られた映像詩だったように。

音楽も素晴らしく、院長の邸宅で流れるグスタフ・マーラーの『ピアノ四重奏 イ短調』(断章)がとりわけ印象的。マーラーもまた生への憧れと死への恐怖、そのなかで揺れ動く闘争と諦観というように、引き裂かれる心を濃密に音楽として描き出している。



とはいえ、『変身』や『城』や『六号病棟』などの場合は、あちら側へ行くことを自ら望んだわけではないのと異なり、『シャッターアイランド』では自らが望むかたちであちら側へと行くことになる。そのため、ラストでアンドリュー/テディが口にする「どっちがマシかな? モンスターのまま生きるか、善人として死ぬか」という台詞は、正気に還ったアンドリューによるもの。

そのことによって、不条理のなかに生きる条理が、痛切に起ち上げられてもいる。

4の法則 67番目は誰?というメッセージ(院長の仕込み)は、4の法則が4人の名前をアナグラム(文字の入替え)で作り替えたことや、67番目の患者が本当の自分(アンドリュー・レディス)であることなどを意味している。

また、警備隊長の運転する車に乗った際に交わした、暴力と秩序に関する会話も印象的だった。いずれのエピソードからも、アンドリューが秩序(条理)を強く求めていたことが分かる。

それらは、妻や子供と自身の間に起きた不条理な出来事に、条理(秩序)をもちこむことで、正気を保とうとしたからかもしれない。

アンドリューにとっては、あちら側のほうがよほど条理性に満ちていた。実際、こちら側の正常なはずの世界は、ロボトミー手術という暴力的で不条理な行為がまかり通るような、異常な世界でもある。

一見すると、異常に思えるあちら側の世界のほうが、秩序や条理に満ちているという痛切さ。この『シャッターアイランド』の味わいは、僕に撮っては、そうした苦悩の現れ方にこそある。

そして、こちら側/あちら側や、正常/異常をつなぐ象徴的な舞台として灯台が描かれており、その光はアンドリュー/テディの二重性を浮かび上がらせるだけでなく、正常なはずのこちら側の不条理性なども同時に照らし出している。



マーティン・スコセッシのフィルモグラフィのなかで、たぶん彼でなければならなかった作品の中には入らないものだろうと思う。しかしながら、彼がなぜこれを撮ろうとしたのかは、よく分かるような気がする。

ニューヨークの裏窓から、「アメリカの原像」を描こうとしている監督という捉え方を僕はしており、この作品に描かれるアンドリュー/テディが抱えた葛藤は、彼が中心テーマにしている人物たちが、みな抱えたものと同じもののように思える。

彼らは、精一杯に自らの条理に生きようとし、そして死んでいった。映画冒頭の石碑の文言のように。

REMEMBER US FOR WE
TOO HAVE LIVED,
LOVED AND LAUGHED

わたしたちを覚えておいてください
みなと同じように生きて
愛して笑っていたんだと
青雨

青雨