青雨

アトランティスのこころの青雨のレビュー・感想・評価

アトランティスのこころ(2001年製作の映画)
4.0
数少ないスコット・ヒックスの映画作品を思い浮かべるときには、いつも静かな気持ちで僕は振り返ることになる。またそれは、作品の語りかけてくる声が静けさを求めるからだろうとも思う。

心の振幅から言えば、それほど大きな揺れは生じないものの、耳を澄ませている限りは、終わることのないさざ波を聞いているような気持ちになる。

そしてこの監督はいつでも、喪失を起点とした生への軌跡を描いている。失った何かを回復していくのではなく、たとえば船や飛行機には復原力があるような意味で、喪失は喪失のままに、生きることへ揺り戻されていく感覚が宿っているように思う。

この『アトランティスのこころ』は、スティーブン・キングを原作とした作品であり、彼の原作映画に接するときに、僕が最も楽しみにしているのは、そのあからさまなまでに明瞭な暗喩のイメージになる。安っぽさや下品さの、一歩手前の水際(みずぎわ)のようなところで、いつでも彼はそのイメージを立ち上げている。

そのスティーブン・キングを原作としたスコット・ヒックス監督作品であるため、観る前から何となくこういうラインだろうと予想はしており、また素晴らしく期待通りの作品だった。



スティーブン・キング原作という意味では、『スタンド・バイ・ミー』(ロブ・ライナー監督, 1986年)や『IT Chapter Two』(アンディ・ムスキエティ監督, 2019年)と同様に、本作もまた、中年期に差しかかった男(ボビー)が少年期を振り返るように始まる。

彼らが中年期から少年期へ向けて送るまなざしは、単なるノスタルジーという意味合いを超えて、過去へ向けたまなざしを折り返すように、未来へと振り向けるためにある。けれどそうした切実さとともに、それでもいっさいは過ぎ去っていくことが、いつでも余韻として残されることになる。

父親を亡くした少年ボビー(アントン・イェルチン)の繊細さもよく描けており、また、精一杯に生き抜こうとしている母親リズ(ホープ・デイヴィス)の描き方も素晴らしく思う。決して息子の心の襞(ひだ)を汲みとろうとはせず、亡き夫のことを公平に語らず頑(かたく)なに心を閉ざしているものの、その偏狭さが彼女の精一杯をよく表している。

ちなみに、母親を演じたホープ・デイヴィスは、『ワンダーランド駅で』(ブラッド・アンダーソン監督, 1998年)という、ボサノバを多用した素敵な恋愛映画に主演しており、綺麗な容姿なのに影の薄いところが、個人的な知り合いの女性によく似ており、そんなところも面白く思っている。アントン・イェルチンについては『ポルト』(ゲイブ・クリンガー監督, 2016年)が、僕としてはたいへん印象に残っている。

そんな母子の暮らす家の2階の隣室に、初老の男ブローティガン(アンソニー・ホプキンズ)が引っ越してくることで、物語は展開していくことになる。

そしてブローディガンのもつ特殊能力(さまざまなことを透視する力)が暗喩として示しているのは、逆説的に示される、僕たちの盲目性(ブラインドネス)のように思えてならない。

このあたりが、スティーブン・キングのマジカルなところであり、「見える」ことを通して描いているのは、実際には「見えない」ことだろうと思う。少年ボビーも母親リズも、彼ら母子に関わるすべての人たちは、ほとんど何も見えていない。またその見えなさによって、彼らはそれぞれの何かを喪失している。

ただ少年ボビーだけは、初老の男ブローティガンの透視能力を通して、その「見えなさ」に気づくことになる。そのようにして彼は、それぞれに喪失しているものが何であるかを、予感のように胸に秘めていくことになる。

幼馴染との淡い恋心と友情、母への思い、暴力と性と不可解さに満ちた大人(社会)への恐れ。そのように混沌としながらも、どこか透明に世界を見渡していた僕たち自身の少年期のあの感覚が、ブローティガンのもつ透視能力を媒介に見事に描き出されていたように思う。

こうしたスティーブン・キングの基本ラインを踏まえながら、スコット・ヒックスは、喪失からの回復という安易な道をとるのではなく、不吉なものも、甘く疼(うず)くようなものもすべてを含んだ予感として、最終的にブローティガンを失いながら受け渡されたバトンのように、少年の生への軌跡を描いている。しかし、その後の少年ボビーが、ブローティガンとの交流を胸に、立派な大人になっていくということは、おそらくはない。

ここには、生へと復元していく予兆のみが示されている。そうした予兆の気配を周囲に感じながら、僕たちが盲目性(ブラインドネス)のうちに生きているように。
青雨

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