すずり

アメリカン・ヒストリーXのすずりのレビュー・感想・評価

アメリカン・ヒストリーX(1998年製作の映画)
4.5
【概略】
『怒りは君を幸せにしたか?』
...
ネオナチの一派として黒人達を迫害しているデレクと弟のダニー。
デレクはネオナチを率いるカリスマとして過激な活動に邁進していたが、ある日車泥棒に入った黒人を惨殺した罪で三年の刑に服すこととなってしまった。

そして時は流れ、
デレクが出所するのを迎え入れるネオナチのメンバー達。
しかし彼はかつての怒りは何処かへと立ち消え、遂には一派からの脱会を申し出るが...

・・・

【講評】
差別の意識は何処から生まれ、そして争いへと発展していくのか。
そんな非常に示唆的な問いを、繊細な画面と俳優達の名演によって描き出した一作。

『Primal Fear』や『ファイトクラブ』では少し弱々しそうな役回りを演じていたエドワード・ノートンが、まさかのスキンヘッドガチムチを演じています。
しかもマジで怖そう。
彼のネオナチズムに対する狂気的な偏執も、血走った目や怒鳴るような話ぶりからありありと伝わってきます。
見事に役に入り込んだ演技でした。

また、デレクが考えを改める前後でモノクロとカラーを使い分けている部分も非常に面白いですね。
モノクロの殺風景さが際立ち、よりデレクの異常性が強調されているようでした。
こういう一風変わった演出がしっかり物語に反映されているのは素晴らしいです。


そして、本作では『怒り』というワードが度々登場しますが、差別と『怒り』という感情には切っても切れない関係があります。

先史時代から近代まで立ち返れば、力を持ったものが力を持たざるものを支配する封建社会が長らく成立していたわけですが、これは民主主義や科学技術などない時代においてコミニティを存続させる非常に現実的な手段として確立していたからです。
そして、これらの時代では当然ながら貴賤の差による差別というものがあれども、此処には社会構造的な論拠というものが(かなり語弊がありそうですが)一応存在していました。

そして、近現代になって資本主義・民主主義が発展してくると身分差のみが立ち消え、平等の名の下に貧富差が顕現してくるわけですが、そこから新たな差別が生じてきます。

ナチ党政権下のユダヤ人迫害が最も具体的な例でしょう。
WWⅠで本土決戦をしていないにも関わらずドイツが敗戦し、今も国民が貧困に喘いでいるのは裕福なユダヤ人が裏から陰謀を図っているためだと、ナチ党は国民の貧困に対する『怒り』をユダヤ人に向けるように扇動したんですね。
もはや論拠も何もあったものではないですが、民衆の差別感情はこの時に大きな"指針"を獲得してしまいました。
このように『怒り』と集団心理が合わさってしまうと、人間は論拠などないままに差別へと傾倒していってしまうのかもしれません。

こうして時を経ていくにつれて、
差別とは人為的に作れてしまうもの、
それでいて論拠の存在しない(存在しなくても気にされない)ものへとすり替わっていってしまったんですね。

本作に話を戻すと、
白人至上主義やナショナリズムという根底の部分も勿論ありますが、ネオナチのメンバー達は「黒人は無闇矢鱈と犯罪を犯し国を堕落させている」と語り、ドス黒い憎悪に燃えます。
では何故彼等が犯罪に走るのかという問いには、決して行き着きません。
そこには埋める事の困難な貧富差や謂れのない暴力があり、結果的に差別をする論拠を創り出しているのはネオナチをはじめとする白人達なんですね。
完全なる負のスパイラル構造になっているわけです。

本作は、その自己矛盾の要素を鮮烈に描き出し、ラストシーンでは米国国民に自省を促すような衝撃的な展開で幕を閉じます。
ネタバレを見ずに鑑賞したのでかなり衝撃を受けましたが、本作はあの終わり方でしかいけないような気さえします。

私は差別というものは決してなくす事の出来ない人間の業であると思いますが、本作のような示唆的な作品を観てその都度内省を新たにしようと感じました。
非常に意味のある一作です。


【総括】
ネオナチの青年が刑務所での経験を通じて、差別について再考することとなる過程を描いた社会的な一作。
是非とも観るべき映画です。
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