Jeffrey

アメリカン・ヒストリーXのJeffreyのレビュー・感想・評価

アメリカン・ヒストリーX(1998年製作の映画)
5.0
「アメリカン・ヒストリーX」

〜最初に一言、ドゥザライトシング同様に鮮烈なイメージを放ったケイ監督のデビュー作にして、人種問題の傑作。これは今の極左が行っている事柄を暗示したかのような映画である〜


冒頭、ベニス・ビーチの美しい夜更け。モノクロとカラーパートに分けられた3年前の過去と現実の2日間。黒人に消防士の父を殺された青年、弟とその家族。白人至上主義へ没頭する。懲役、対立、スキンヘッズ、憎悪の演説、暴力と殺人。今、兄弟は新たな道へと進む真っ当な人生を見つける…本作はこの世にたった2本しか映画を残していないトニー・ケイが監督と撮影を務めた1998年の米国映画で、エドワード・ノートンとエドワード・ファーロングと言うダブルエドワード主演の人種差別映画で、この度BDにて再鑑賞したが超絶大傑作。この映画は頗るほど大好きな映画だ。当時、人種差別映画を片っ端から見た学生時代の時に出会った作品で、かなり衝撃を受けたものだ。本作は白人至上主義の白人の兄弟を通して、米国抱える人種問題と貧富の差を観客に叩きつけた超問題作で、あのロドニー・キング事件をモノクロシーンでノートンが話す食卓場面はとんでもなく好きである。まず、この作品は見るものにとっては賛否両論だろう。それは、主人公の男が知力体力ともに黒人よりも白人のほうが優秀であると言うキャラクターに作り上げられているからだ。しかも黒人たちは卑怯な存在として描かれている(劇中で、バスケに負けた黒人連中が、夜中に相手選手の白人の家に停車している車を盗もうとする)さらに、アファーマティブアクション、いわゆるマイノリティーの雇用を平等にするための積極措置への不満を漏らす場面での説得力のある演説は凄いし、それに対しての少数派民族の立場からの反論が描かれてないからだ。この点においては、ヒスパニックを始めとしアジア系、黒人、アラブ系、ユダヤ系はみんな不満だろう。

しかも基本的にスキンヘッズ連中と言うのは、落ちこぼれでいじめられっ子なのが多いのだが、本作では成績優秀役として作られている。この映画では基本的に黒人の教師のみが素晴らしい人格者のように登場するが、その他は基本的に平凡な人間かそれ以下の存在で描かれている。スキンヘッズと言うのはイギリス発祥で、英国映画のこの手のジャンルを見るとたいていは落ちこぼれである。チャーリー・ハナムとイライジャ・ウッド主演の「フーリガン」とか観ると分かる。そしてこの作品が上映された途端に、米国で最も議論読んだのは、実はエンディング場面である。まず、現実のアメリカでは黒人青少年による殺人事件の被害者は圧倒的に黒人に限られているらしく、この映画のように白人優位主義のメンバーを黒人が〇〇と言うケースは極めて稀である。この結末を見た観客は、ほらやっぱり黒人が悪いんだと言う感想を抱いてしまう感じになってしまっている結果的に。私個人、そうかもしれないが、こういったケースもあるのだからいいと思うが、映画にしてしまうとやはり強力なプロパガンダとして見られてしまう面もあるため、そういった賛否があるのは当然だと思う。さて話をノートに戻して進めたいのだが。


あの「真実の行方」でリチャード・ギア食ってしまうほどの演技力を我々に見せつけてくれた彼が、出演5作目にして最高のパフォーマンスをしてくれた。その翌年にはブラッド・ピットと共演したデヴィッド・フィンチャーの傑作の1つ「ファイト・クラブ」でも主演を務め強烈にインパクトを残した。一昨年には初監督にも挑戦し、未だにオスカーを受賞していないのが不思議で仕方がない俳優の1人だ。そしてジェームズ・キャメロン監督の大傑作「ターミネーター2」で、世界中の女子を虜にしたエドワード・ファーロングが丸坊主になり、見事に白人至上主義の兄の弟役を演じきっていた。本作には色々と逸話があり、本作を見たアーノルド・シュワルツェネッガーがエドワード・ノートンの肉体を見てステロイドを使ったのかと直接電話をした話や、ノートンが公開する前に再編集行ってしまい、監督ともめたこと、さらにそのことによって監督が自分の名前を外してくれと言ったが、会社側が拒否したため会社、協会を訴える事件も起きている。

それと当時アカデミー賞で大絶賛されオスカーを手にしたスピルバーグ監督の傑作戦争映画「プライベート・ライアン」の出演を断って本作に出た話は有名だろう。さて、物語を説明する前に重大な事件をいくつか紹介したいと思う。私は兼ねてから黒人への人種差別を筆頭にした作品を様々見てきている立場からいろいろな解釈を持って説明していきたいと思う。まずは、本作に出てくるロドニー・キング事件と言うものだ。1991年に道路を走っていたロドニー・キングがスピード違反で複数の警官に捕えられて暴行受けたと言う事件だ。これは後にロス暴動のきっかけとなった重大な事件である。その次にラターシャ・ハーリンズ射殺事件と言うものがある。こちらも同年に起きた韓国系のお店でオレンジジュースを購入しようとした少女がその韓国系の店主に後からショットガンで射殺された事件である。この事件両方とも「ドゥ・ザ・ライト・シング」のレビューに詳しく書いたのでそちらを参考にしてほしい。

続いて、1998年に行ったテキサス州ジャスパーでジョン・W・キングたち3人が、ヒッチハイカーしていたジェームズ・バードJr.を黒人だと言う理由で殴り倒した後、足首をトラックに鎖で結びつけて田舎町を2マイル引きずって殺したという事件だ。死体の右腕はちぎれており、犯人のキングは数日後にジェスパーで開かれるクークラックスクラン大会に出場する予定で、事件を真似て黒人を自動車で引きずるリンチがイリノイとルイジアナで起こった事柄だ。そして1999年7月4日、イリノイ州からインディアナ州にかけて、黒人、ユダヤ系、アジア系が次々に銃殺され、2人が死亡、9人が重傷した事件だ。自殺した犯人ベンジャミン・スミスはWCTC(世界創造者協会)と言うキリスト教右翼団体の一員で、続いて同じ年にカリフォルニア州グラナダヒルズのユダヤ系市民センターに乱入した男が拳銃を乱射して受付の女性を射殺して5歳と6歳と8歳の男の子と女性に重症を負わせた事件だ。犯人のバフォード・ファーロウはその30分後に通りすがりの郵便配達員を、彼がフィリピン系だと言う理由だけで10発打ち込んで殺した事件だ。

犯人は、アーリア民族国家と言うネオナチ組織のメンバーで、同団体の創設者がFBIとの銃撃戦で死亡した後、その未亡人と結婚していたのだ。このような人種や民族、はたまた宗教などに対する憎悪による犯罪をヘイト・クライムと呼ぶのだが、近年その言葉を便利に利用してヘイトしてない人たちにヘイトと言う傾向が日本で起きている事例は山のようにある。主に、ヘイトクライムを起こすグループは、1996年のFBIの調査によれば全米で400を超えるとのことだ。そのうち127の団体はKKKの系列、100はネオナチで、42はスキンヘッドズ、81はキリスト教右翼だと言うデータが出ている。ヘイト(憎悪)の対象はマイノリティー(少数派)であるが、今現在はそんなこともなくなり、逆にマジョリティがヘイトクライムのターゲットになりつつある…というかなっている。つまりアフリカ系(黒人)、ヒスパニック(中南米系)、アジア系等の少数民族、ユダヤ系、カソリックなどの非プロテスタントや、LGBT、いわゆるゲイなど、果てはホームレス、身体障害者等の社会的弱者が攻撃されていた時代が90年代から2000年代初頭をピークにかけ(激動の60年代を除けば)徐々にすくなってきたと思いきや、近年ではマジョリティーがマイノリティーを差別、マイノリティーがマジョリティーを差別すると言う構図になっている。

ヘイトグループはプロテスタントの白人こそが人種的に優秀だと信じ、マイノリティーの破滅を目指している。また、南北戦争で負けた南部人たちが結成したKKKのように、有色人種に人権を認めるアメリカ政府にも敵対しているのが、この作品のエドワード・ノートを演じる主人公が口口にしてきた怒りの言葉から伝わってくる。ヘイトグループは年に20パーの割合で増加しているが、中でも1番の伸びを見せているのがスキンヘッズである。88年の初めまでに全米で1500人ほどしか確認されなかったのが、10年後には3倍近くに膨れ上がっていると言うデータが、この作品から公開した数年後にわかっている。これほどまでに自分たちの国に対して規制をする他民族に恐怖を覚えている白人の気持ちが非常に顕著に現れている印のーつとも言える。そのスキンヘッズは、80年代の半ば、イギリスでのスキンヘッドブームに影響されてアメリカに登場したのだ。つるつるに剃りあげた頭やドクターマーチンの編み上げブーツに米軍払い下げのカモフラージュパンツ、黒のMA1フライトジャケットが彼らの定番ファッションとなっている。英国映画を見るとスキンヘッドが多く出てくる。例えば「THIS IS ENGLAND」スキンヘッドが出て来なくてもそれらに似ている映画で「さらば青春の光」2008年の映画がようやく2020年になって日本でも公開された「アウェイデイズ」などもその種だろう。

本作のデレクが胸にタトゥーをしていたハーケンクロイツ(カギ十字)などのナチスドイツのシンボルを身に付け、ハイルヒットラー式敬礼をするのも定番である。実際に敬礼する場面もあったし、弟の部屋には鍵十字の大きな段幕が引かれていた。そもそもスキンヘッズはヨーロッパの方が歴史も古いし人口も多いが、ヨーロッパと違ってヒトラーの著作物やハーケンクロイツの旗などを法律で禁じていないこと、拳銃の所持率の高さが、アメリカのスキンヘッズを世界で最も危険で攻撃的な存在にしていることからもメッセージ性としてこの作品は伝えているように感じる。90年代のスキンヘッドによる犯罪はいくつかあげるだけで、その強さが伝わるだろうと言うのは謳い文句の1つになっている。例えば、1990年8月に起こったテキサス州ヒューストンでは2人ほ18歳のスキンヘッズが通りがかりの15歳のベトナム難民の少年を鋼鉄入り安全靴で踏み殺した事例がある。

さらに私が生まれた1991年の6月にはテキサス州アーリントンで、3人の16歳のスキンヘッズがショットガンで黒人青年を射殺した。路上で白人の友達と談笑していたからというのが理由だそうだ。そして同じ年のクリスマスイブにはアラバマ州バーミンガムでANF(アーリアン・ナショナル・フロント)を名乗るスキンヘッズが2人のホームレスの黒人を野球のバットで襲い、安全靴で踏み殺した事件もある。その2年後の93年7月にはワシントン州タコマのスキンヘッズが黒人地位向上委員会のオフィスとシアトルのゲイバーに爆弾を投げ込んだ。翌年94年7月にはネバダ州レノで21歳のスキンヘッズが36歳のゲイの男性をナイフで20回さして殺した。同年3月にはオレゴン州友人で2人のスキンヘッズが自動ライフルでオレゴン州ユージンのユダヤ教会を銃撃した。ただしスキンヘッズにも、パンクやゲイなどの非差別的グループも多くてネオナチ系スキンヘッズと抗争を繰り返している。ここが非常に厄介である。ジョン・シングルトン監督の「ハイヤーラーニング」と言う映画があるのだが、この作品にもネオナチは出てきていた。

他にも90年にはカリフォルニア州サクラメントでは人種差別に反対するスキンヘッズのメンバーがネオナチ系スキンヘッズに刺されて死亡した事件もある。通称SHARPと呼ばれる彼らは、92年8月にもワシントン州オリンピアでもアジア系の非人種差別系スキンヘッズの少年がネオナチ系スキンヘッズに射殺された事件がある。しかし、スキンヘッズ、KKK、ネオナチ、キリスト教右翼たちは互いに敵対したり抗争する事はなく、有効的に結託している。特に若年層を中心とするスキンヘッズは愚連隊のようなもので、全国的に組織化されておらず、小さなグループが生まれては、いつの間にか消えていくのだが、KKK、ネオナチ、キリスト教右翼などの組織のもとで青年部もしくは特攻隊として抱え込まれている場合が多いとの事だ、プレスシートによると。

1993年、テネシー州プラスキーで開かれたKKK大会には全国から100人以上のスキンヘッズの少年たちが参加してスキンヘッズに身を投じる若者の多くは離婚家庭や生活保護家庭の出身者で、学校からドロップアウトしたために定職もない場合がほとんどとされ、家にも学校にも職場にも居場所がなく、怒りだけをため込んで街をうろつく少年たちに声をかけるのがスキンヘッズのリクルーターの仕事である。僕ら白人は本来は支配民族として豊かに暮らせるはずなんだ。それが劣等民族どものせいで、こんな目にあっているんだ…そういって彼らの不満の矛先をマイノリティーに向けさせると言う手段をよく使っているとのことだ。今現在では、極右になりすました極左が暴れ回っている構図になっている。いわゆるパラサイトである。さて長々と書いてしまったが、ここから物語を説明したいと思う。

本作は冒頭に、モノクロームで海辺を捉えるファースト・ショットから始まる。カットは変わり、夜道を行く車がー台捉えられ、ベッドの上で眠る弟ダニーが隣の部屋のセックスの喘ぎ声で目を覚ます。カメラは彼の家の前に数人の黒人が拳銃を手に持ち、やってくるのをとらえる。1人が車の窓ガラスを割る。その音に気づいたダニーが窓から覗く。そしてセックス中の兄貴に黒人が兄貴の車を狙っている事を伝える。彼(兄貴の名前はデレク)は引き出しの中から拳銃を手に持ち外へと上半身裸のまま降りる。カメラは彼の後を追って行く。そしてここで悲惨な事件が起きて物語が始まる…さて、物語は僕の名は、ダニー・ビンヤード。カリフォルニアのベニスビーチ高校に通っている。尊敬する人物は、兄のデレク。そのデレクが3年ぶりに刑務所から出所する日、僕はついに校長の呼び出しをくらった。国語のレポートの題材に、ヒトラーのわが闘争を選んだからだ。校長はこういった。兄弟をテーマに作文を書け。タイトルはアメリカンヒストリーX。デレクが投獄された経過を分析してみろ。それが現代のアメリカにおける君の生き方を、どう考えたか。だから今、僕はこうしてコンピュータの前に座り、過去の記憶をたどっている。

地元のスキンヘッドのリーダーとしてカリスマ的な存在だったデレク。彼がその道に足を踏み入れたのは、消防士をしていた父が、勤務中に黒人のドラックディーラーに殺されたことがきっかけだった。デレクの心に膨れ上がる憎悪の感情。それに目をつけたのが白人至上主義グループの黒幕キャメロンで、彼からスキンヘッドのリクルート役に抜擢されたデレクは、組織の中でメキメキ頭角を現していった。限界まで鍛えあげた筋肉で左胸に勲章のように輝く十字架の刺青。黒人を相手にしたストリートバスケで見事なシュートを決め、韓国人経営のスーパー襲撃でも誇らしげに煽動役を務めたデレクの姿は、弟の僕の目にも完璧なヒーローとして映った。だから僕も彼の後を追い、腕に刺青を入れてキャメロンの組織に加わることにしたのだ。しかし、刑務所から戻ってきたデレクは、そんな僕を見て頭を曇らせる。仲間のセスの訪問にも、迷惑顔でいる。いったい彼に何が起こったのだろう?今も鮮烈に思い出すのは、デレクが刑務所行きになる事件が起きた、3年前のある日のことだ。

僕たち家族は、父を亡くした喪失感からどうにか立ち直り、母は国語教師のマーレーと交際を始めていた。しかし、マーレーを交えた夕食の席で人種暴動の話題が持ち出れ、デレクとマーレー、リベラルな姉のラビーナが対立することになる。激こうしたデレクが姉を殴った事から、お袋までがマーレーに捨てられる羽目になった。そんな最悪の1日を締めくくる事件が起きたのは、深夜のことだ。ことの発端は、デレクの恋人のステイシーとベッドインしている最中に、3人組の黒人がデレクの車を盗もうとしたこと。それに気づいた僕の叫びを聞いて通りに飛び出したデレクは、間髪入れずにまず見張り役を射殺。車を盗もうとしていた1人を地面に組み伏せ、父親の父親の復讐を果たす機会が巡ってきたことばかりに残虐に首の骨を踏み折ったのだ。駆けつけたパトカーのライトを浴び、勝ち誇った微笑を浮かべるデレクの表情を、僕は一生忘れないだろう。

しかし、今のデレクはあの時とは別人のようだ。キャメロンが開いた出所祝いのパーティーに現れた彼は、足を洗いたいと言い出して仲間から裏切り者呼ばわりされる始末になる。僕も思わず言った。兄貴なんか大っ嫌いだ…するとデレクは、静かに語り始めた。自分を変えた刑務所での出来事。刑務所では、孤立した人間は狙われる。そう考えたでデレクは、自分と同じスキンヘッドの一団に加わった。しかし、彼らはヒスパニック(メキシコ系)グループとつるんで、ドラックの商売に手を染めると言うポリシーのかけらもない奴らで、それを知った彼が反抗的な態度に出ると凄まじい暴行を加えた。仲間に裏切られた失望と、保護を失った恐怖が、デレクを絶望のどん底に突き落とす。そんな彼に、陰から救いの手を差し伸べたのが、同じ洗濯室で働く黒人受刑者のラモントだった。自分が出所の日まで生き延びられたのは、彼が黒人グループを制止してくれたおかげだった。そう気づいたデレクは、偏見を持つことがいかに愚かしく、怒りを燃やすことがいかに非生産的な行為であるかを悟ったのだ。

俺は目が覚めてラッキーだったと語るデレクの言葉が、ゆっくりと僕の胸に染み込んでいく。その時、僕は思い出した。デレクも、昔は黒人文学の話題に目を輝かせるオープンなハートの持ち主だった事を。そこに狭量の種を芽生えさせたのは、マイノリティの優遇政策に異議を唱える父との何気ない会話だった。あの時からこれまでの失われた時の重みを思い、僕の目からは涙がこぼれ落ちる。でも、僕とデレクの未来はこれからだ。新しい1日の始まりと同時に、僕たちは生まれ変わるのだ。兄の描いたヒストリーが決して無駄にならないことを、僕は心の底から信じたい…。そしてやがて、妙な車がまた僕の家の周りをちょろちょろと動き回り始めた。そしてとある朝、僕は学校に通った。そのトイレで用を足して後ろを向いた瞬間僕は…とがっつり説明するとこんな感じで、決して万人が傑作と思う映画ではないが、溢れんばかりの悲しみが宿る最高傑作だと自負する。映画は終始興味深く、時に抵抗しがたい魅力を感じさせ、マッチョな肉体に無数の刺青を入れ、ロバート・デ・ニーロを彷仏とさせる芝居とともに、パンチがミックスされた演出は衝撃的かつ挑発的な内容にインパクをワンカットごとにくらうような映画で、暴力と嫌悪と人種偏見といった問題を共感に満ちた繊細な眼差しでとらえた作品でもある。これほどまで挑発的な問題意識を持つ作品はやはり「ドゥ・ザ・ライト・シング」以来と言っていいだろう。



この映画1998年10月30日に公開されたようだが、全米にセンセーションを巻き起こしたたそうだ。それもそのはずだろう。まず設定に父親(白人の)が黒人に殺されたと言うストーリーテラーは黒人に対してご都合主義と思われても仕方がない。逆に白人はマイノリティにマジョリティーが殺された、やはりこの国にマイノリティは必要ないと思いこむ白人至上主義のグループもいるだろう。しかしながら映画を見ると、それだけのメッセージではなく、憎しみを背負いきる事はできないと言うのが最大のメッセージであった。この作品では白人至上主義の兄貴をヒーローと崇めているティーンエイジャーの弟の物語である。実際に兄貴が出所してからその地位は神のようになっていることが映画を見たらわかる。2人の兄弟が辿る心の軌跡の物語を、繊細にしてパワフルなタッチで作った作品が「アメリカンヒストリーX」の本来の役目だと思うのだが、差別意識をさらに植え付けてしまうような解釈もできてしまう。

モノクロパートで兄貴のデレクが、ロドニー・キング事件をひたすら話し合って、それに白熱した彼と家族たちの言い争いが淡々とされる数分間があるのだが、そのロドニー・キング事件ていうのは彼が言っていたようにビデオ撮影されていたために、悪い部分だけが市民に伝わって、本来役目をきっちり果たした警官たちが悪者にされたのは納得いかないと言うことを今のマスコミ(メディア)の現状とほぼ一致してしまったのだ。日本人にも馴染みが深いこのキング事件は改めて言うと、91年にスピード違反で捕まった黒人男性が白人の警官たちにボコボコにされて、その模様がビデオに収められ全世界のテレビで放映された事件だ。YouTubeとかで英語でロドニー・キングなどと検索すると出てくる。この警察官への無罪判決をきっかけに翌年、ロサンゼルスで大暴動が発生し、50人以上の死者を出したのもご存知の通りだ。

その2年前の89年にスパイク・リー監督が作り出した大傑作「ドゥ・ザ・ライト・シング」はそれを予知していたのではないかというのが私の意見である。この事件がいかに米国社会の大きな問題の氷山の一角でしかないことを明らかにしたものだった。そして本作はアメリカの巢病と呼ばれるそれらの人種差別問題を若者たちの痛みとともにえぐり出した視点での鋭さが社会の議論を呼んだだと思う。ちなみにキング事件はレイクビューテラス付近で起こった事件で、それをオマージュしたかのような作品があるのだが、サミュエル・L・ジャクソン主演の「レイクビューテラス」と言うサスペンス映画だ。私自身、この映画を初めて見たときに思いっきりキング事件を人種の真逆にしたパロディー映画だと思って調べたら出てこないのだ。そういった事柄が…なのでこれは私の思い込みかもしれないが、絶対にレイクビューテラスで起こったロドニー・キング事件の人種を変えた映画だと感じる。この作品わりかし面白いので時間がある人は見て欲しい。

この映画の画期的な所はいくつかあるが、いわば悲劇が次の悲劇を生む連鎖の構造と言うのを思い知らさせている。行き過ぎたイデオロギーの先に待つ悲惨な結末を観客に冷静な眼差しで見つめさせた映画としては十分に意義のある映画だと思う。これは見て損はないだろう。マイノリティーだろうがマジョリティーだろうが同姓者であろうがなんであろうが…。しかしどうなんだろう、なかなか難しい問題ではある。この映画に限っては、かつてハイスクールの優等生だった主人公がマイノリティーの優遇政策に反感を抱いた父親の感化を受けた後に、父親が黒人に殺されてしまって、この悲しみと怒りにより、白人至上主義の活動にのめり込んでいくのだが、白人が黒人を殺した場合は黒人は白人を恨むだろう、黒人が白人を殺せば白人は黒人を恨むだろう…それでは何も解決しない。だがここでポイントなのが両者の本音だろう。白人はひたすら黒人を含むマイノリティーを邪険にしたい。黒人を含むマイノリティは、マジョリティーには多少行き過ぎたことをしてもいいと言うスタンスに立てると言うことを利用して、被害者面を延々とやる。それがモノクロパートで写し出される彼のセリフにある、いつまでも被害者ヅラしてうんざりだと言うことにつながる事柄である。

日本では在日朝鮮問題や従軍慰安婦や徴用工問題など様々な問題がこれらと一致する。今回は米国の差別問題に対して語りたいため、日韓問題はここでは省く。先ほども言ったがナチス崇拝を象徴するハーケンクロイツを胸にでかでかと刺青するほどまでに、のめり込んでいくデレクが、マイノリティーを攻撃することに怒りのはけ口を見出していく恐怖と、そんな彼に強烈な憧れを抱いてしまう弟の存在と、同じ道を突き進もうとする彼を出所したデレクが何とか立ち直らせようともがくヒューマンドラマが非常によくできているのだが、いわば、父親が残していった憎しみの種が、家庭と言う土壌で広がってしまったことが悲劇とも言える。しかし、白人の気持ちも非常にわかるのであるこの作品を見ると。そもそもヨーロッパ(ブリティッシュ王国)の不自由な生活に嫌気を刺したアングロサクソンたちが、新大陸として見つけ出し、そこで残虐極まるインディアンを殺して手にした大陸に他民族が入り込み、そこを牛耳り始め、白人が貧困に陥り、この国を創っていない他民族が優遇されていく社会を肌で感じていたら、このような人は必然的に起こってしまうだろう。これがトランプの誕生への道を作ったブルーカラーと言われる白人の気持ちが顕著に写し出された2016年の大統領選当選からの成り行きだろう。

デレクが言い放ったリンカーンが奴隷解放してから何百年も経っているのに、未だに被害者ヅラするのは何でだと言うのと、白人がヒトラーのことを論文で書いたら締め上げられ、なぜ黒人がキング牧師のことを書いたり、ヒスパニック系がチャベスを論文に持ってきたら絶賛されるのに白人が描くとダメなんだと言うセリフがあったように、縛り付け(ポリティカルコレクトネス)が強すぎるのもどうかと思う。とゆうか、それが行きすぎてる限り、この問題は中々解決し難いかと。結局映画がたどり着く大団円と言うのは、悲惨な結末だったが、兄貴である彼が親になり、弟が子供になり、我々の世代の暗闇をその子たちに植え付けさせたくないと言う改心が描かれており、社会の歪みや抑圧が家族を崩壊させ、未来を生きていくはずの子供たちの心に傷をつけさせると言うメッセージ性とともに、それを救ってくれる光は、家族しかいないと言うことをはっきりとわかった主人公が最後に本来あるべき姿(まっとうな人生)を手にするまでの過程がほぼクライマックスからの主なテーマになっているのだが、それは3年の刑務所暮らしの体験で失望と恐怖を通じて、自らの愚かさに気づいた主人公の憎しみからは何も生まれないと言う新たな価値観を手にした結果であり、それを学ばなかった他の人の場合は、そのまま同じ過ちを繰り返してしまうんだろうなと個人的には思う。

デレクの救いは価値観を新たに手にして家族のもとに戻ってきたことである。これがこの映画で唯一の救いであるなと思った。その後にパーティーに向かう彼が非常に自らを恥ている様な雰囲気が出ているし、それを驚くほどに変貌した兄貴に驚くダニーの姿もすごくわかるのだ。3年間白人至上主義の団体の中で暮らしていた彼には理解はできなかったのだ。そこでもう一つ私個人救いようがあったなと思うのが、兄貴の言葉を聞く耳持っていなかった彼が、きちんと受け入れる素直さがまだあったことだ。彼が夜な夜なシャッターを背にして兄貴に何度も突進してくる場面があるのだが、そこはすごく見ていて胸が痛くなった。その後に刑務所で様々な体験を告白する兄貴の言葉から、悲劇の連鎖を打ち切る勇気を学ぶ彼(エドワードファーロング)の表情は今でも忘れられない。憎しみとは耐え難いほど重い荷物。怒りに任せるには人生は短すぎる…と言うセリフはすごいインパクトがある。そして、兄と自分のヒストリーをこう結論づける弟が、新しい1日の始まりに浮かべる晴れ晴れとした表情が、この映画全体の最高の瞬間であり、最高の救いがある瞬間であった。

だが、この映画は非常に冷酷であり、そうやすやすとハッピーエンドで終わらしてくれないのだ。これがこの映画の根本にある現実のシビアさを浮き彫りにし、人間の意思を超えて存在することをまざまざと見せつけた場面であった。胸くそ悪い幕切れ映画に入る1本として私はこれを選びたい。いゃ〜、冒頭の美しい浜辺のシーンから、そのままモノクロ映像が続いて、白人至上主義の主人公が黒人2人を拳銃で脅して、そのうち1人は逃げたが、もう1人は段差を使った痛々しい殺し方をするのは凄い。この映画面白いことに、冒頭校長室のような所に呼ばれたエドワード・ファーロング演じるダニーがヒトラーの我が闘争を1週間で読んだこと言うのだが、この時点で彼がすごくやれば出来る生徒と言うことが明らかにされている。そもそもレポートをきっちりと提出している時点で他の不良生徒とは差がつくだろう。普通不良は活字の物を読書したりすることはほとんどしないだろう。集中力がないためだ。しかしながら、このダニーはそうでは無い。時間をかけてもきっちり読んでいる。それから米国の星条旗の爪幼児を象徴的にカメラに捉えさせてるのが、アメリカに於いての問題を提起していると思われる。エイヴリー・ブルックス扮する黒人校長が兄貴のデレクは非常に優秀だったと言う事を口にしているのも、ダニーも道を間違えなければまっとうな職務につけると言うことを言ってる。

そんで、父親が殺された事をインタビューしているテレビ画面が写し出される中のデレクが言う人種問題の話が今にも通じていて一向に変わらないんだなと思わされた。そして極めつけは、モノクロ映像(過去映像を流すときはモノクロになる)でデレクが黒人グループを相手にバスケットコートをかけて勝ったやつがこのバスケットコートを一生自分たちの物にするって条件で試合をするのだが、基本バスケと言えば黒人の領域とされているが、この映画では結局のところを白人グループが勝ってしまう。しかも途中で黒人がデレクの顔面に肘打ちをするのも、デレクを一層マイノリティは汚い真似をする寄生虫だと思わせさせるー場面になる。そうすると、この映画結構バイアスをかけているようには思えなく、平等に捉えられている。結局帰結するのは白人至上主義反対映画だが、なぜ白人至上主義になったかをきっちりと映しているのは良い。

特にモノクロ映像で出てくるが白人至上主義のスキンヘッドの白人たちを駐車場に集めて、大演説をするのだが、その後にストッキングをかぶった連中がスーパーを襲う場面は超強烈である。しかもデレクが言っている演説と言うのが、自国の国を持つ民族の意見としては、真っ当すぎてぐうの音も出ない。レジスタッフのメキシコ系の女性に対する暴行はあまりにもひどく、スーパーのものを食いつぶして、レジを窓ガラスに投げて盗みを働くのはまさに今現在のアンティファと一緒である。まだこの90年代と言うのはどちらかと言うとマジョリティー(この場合白人)が過激なことをしていたが、今現在2010年以降からはマイノリティーが過激なスタンスに立っているように思える。そしてこれはこないだスパイク・リー監督の傑作「ドゥ・ザ・ライト・シング」のレビューにも書いたが、ロドニー・キング事件を語るデレクの話はかなり説得力がある。この場面で家族以外にお客が来ているのだが、その男性に対してブチ切れたデレクがその鼻をケツにぶち込んでやるって言うのだが、これは多分ユダヤ人の特徴である魔女っ鼻を意識して言っていると思われる。このシークエンスが、この映画の中ではダントツに強烈に、印象に残った。

この映画見ると気付くと思うが、主人公のデレクが言っている事はまっとうである。しかしながらその真っ当な意見を相させない彼の怒りが暴力に変わる瞬間と同時に話の展開が進むから、行き過ぎだと思うのだ。要するにレイプされている女性を助けた人が犯罪を犯していた人間をボコボコにして瀕死の状態にさせた場合、必ずそこに暴力反対側の人間が、レイプした男に同情的になり、助けたはずの人間を罵倒し始めると言う構図が実際にあるように、この映画でもごく普通のまっとうな意見が、行き過ぎた彼の怒りの暴力によってまっとうな意見が通じなくなってしまうのだ。もっと簡単な例で言うと、日弁連は死刑反対を呈しているため、どんなに極悪な犯罪者がいても、そいつらの弁護に着いた側の弁護士は、必ず被害者のことを何とも思わずに加害者を弁護するのと同じである。それは何故かと言うと、死刑反対と言う自分の思想を正すためであるからだ。自分たちのイデオロギーを正すためには被害者はどうでも良いのである。

ここ最近非常にわかりやすい事例があった。それが座間9人殺害事件である。殺人者の張本人は死刑になりたいから控訴しないと言ったが、死刑反対の弁護士は、被告がそう言っても我々日弁連(弁護士として)控訴すると言ったのである。これはまさに自分たちのイデオロギーを正すため、事例を作るためにこの場合、被害者を超えて加害者の人権もどうでもよくなっている事例である。これが本作には写し出されている。だからこの映画でもモノクロ場面で思いっきり見せているように犯罪を犯そうとしている黒人を石段に口を咥えさせ、頭を足で蹴り潰す場面が、真っ当な(自分の家族を守ろうとした白人)を問答無用の極悪に変えたのである。要するにまっとうな意見と言うものは、無防備で無抵抗でいなければ成り立たないのである。こうしてあの悲劇の帰結へと向かうのだが、あの色鮮やかな暮色が何とも言えない美しさと哀しさに満ち満ちていた。

やはりエドワード・ノートンは当時若手演技派俳優ナンバーワンと表されていたが、彼の芝居は本当にすごいものがある。だから私はノートンがすごく好きだ。確か大阪に住んでていたはず数ヶ月か数年間…。それにしてもモノクロパートでノートンとバトルするユダヤ人の国語教師を演じたエリオット・グールドがすごく太っていてびっくりする。昔はすごいスレンダーだったのに。そんでネオナチ集団のカリスマ的な黒幕キャメロン役に「ロングライダース」のステイシー・キーチが出ているのも激アツだが、白人至上主義を崇める恋人のステーシー役に、フェルザ・バルクを選んだのはいい考えだったと思う。彼女の黒い髪と独特なビジュアルはすごい印象に残った。そんで、スタンダップコメディアンのガイ・トリーが扮した刑務所内の黒人受刑者ラモンも凄く良かった。この映画、過去を映し出すモノクロパートと現実を映し出すカラーパートに分かれていて、非常に現実の話が長く感じるが、カラーで描かれているのは実は二日間の現実だけで、その間に過去のエピソードをモノクロで埋め込む手法を使っていて、ドラマをハイテンションに保つ演出をしている。この作品の脚本を手がけた弱化28歳のデビット・マッケナンもすごい。シルヴェスター・スタローン主演で映画化される(タイトル忘れた)への脚本執筆も注目を集めるハリウッド期待の新星だと当時言われていたなぁ。

またエドワード・ノートンの話に戻るのだが、主人公のデレクの悲しみを肉体で表現した彼の芝居はものすごいものである。だって父親に反抗もできない性格(どちらかと言うと内気)のその高校生が、ネオナチのカリスマへとのし上がっていくのだから、すごいものである。そして彼の肉体作りも圧巻で、スキンヘッドや肉体質のボディーの美しさといったら半端ない。その定番のモノクロパートで警察官に拳銃を向けられ、スキンヘッドに頭をつけて勝ち誇ったような微笑みをするノートンの表情の芝居は脳裏に焼きつくものだ。どうやら役作りのために元ネオナチメンバーに取材して、脚本家と一緒に脚本をリライトしているようだ。俺がノートンを好きなのは芝居力がすごいのだけではなく、大阪に住み、大阪でサラリーマンをしていたと言う事と、日本語を流暢に話し、日本語を学んだ彼の祖父の代理と言う形で派遣され日本に来て数ヶ月滞在していた事柄があるため、勝手ながらに親近感があるのかもしれない。

この作品を見たスパイク・リーが次回作の「25時」にエドワード・ノートンを起用したのはなんとなくわかる。そういえば「ラリー・フリント」の監督のフォアマンはエドワード・ノートンが監督デビューを果たしたきっかけを作った監督である。今思えば当時、エドワード・ノートンがいればロバート・デ・ニーロは不在で良いと言うのが謳い文句のようにささやかれたが、後に「スコア」と言う作品で2人が共演し、さらにまたミラ・ジョヴォヴィッチを入れた「ストーン」と言う作品で再度デニーロと共演しているノートンの存在感は相変わらずすごかった。デ・ニーロ自身ノートンの事どう思っているのか非常に気になるところだ。プロダクションノートによると、脚本のマッケナンは、カリフォルニア州オレンジ郡出身であり、自身の生まれ育った環境にヒントを得て執筆したとのことだ。さて話は監督とノートンの対立に戻るが、この作品は撮影期間43日間で、撮り終えたフィルムは200時間と言う。

これはキューブリックでさえも頭痛の種であると言う長さである。その編集をめぐって、監督とスタジオはモメにもめたそうだ。議論は言い争いに発展し、監督は自分の名前を出さないでくれと言い、ノートンは激しく反論した。自分はラフカットをつなぎ合わせただけで編集は一切していないと言うのだ。そのため、マスコミに配られたプレスシートなどには顔写真もつかないし(監督の)、監督と主役が真っ向から対立した事が半ば、スキャンダル的に取り上げられていた。しかも、監督は壁を拳で殴りつけたものの、力余って骨折し、そのまま入院する羽目になったと言う事態もある。その後にも監督は色々と実費で芸能業界紙にキャンペーン広告を打って、反アメリカンヒストリーXをやっとそうである。それほどまでに怒り新党だったのだろう。映画と言うのは集団芸術だから、色々と厄介なのはわかるなと。今回BDを見て、特典映像も見返したのだが、カットされてる部分にロドニー・キング事件を揶揄して白人のサーファーの青年たちが黒人老婆をからかう場面がある。そして最後にエイブラハムリンカーンの言葉を引用したい。われわれは敵ではなく友人である。敵になるな、激情に溺れて愛情の絆を断ち切るな仲良き時代の記憶を手繰り寄せれば良き友になれる日は再び巡ってくる…。
Jeffrey

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