ドタバタヒューマンコメディのかたちをとることによって「それ」を全く画面に登場させないというすごいことをやり遂げてる。
ホラーで最後までこれだと成立させるのは難しい。
イマジナリーフレンドとか妄想とかそういう物語ではない。決定的にその超常的な何かは「いる」と示されていて、劇中で「いる」ことになってる。最終的に。
途中までは主人公が変人または狂人という可能性を示し、実際いるのかいないのかはどちらとも取れる(どちらかというといない寄り)ように進む。
後半ぶらんこが揺れたり、財布が隠されたり、門を開くレバーが動いたりというちょっとした超常現象も映されるが、しかし途中、主人公の姉が「時おり私にも姿が見える」と決定的告白をする(それがちゃんとドタバタに繋がる)。
しまいには精神病院の院長が見える側の人間になる、という展開になる(それがちゃんとハートフルな展開に繋がる)。
「それ」の姿は主人公が描かせた肖像画でしか示されない。
(見た目普通にめっちゃ不気味。)
(ポスターには影が映ってるけどシーンとしてそういうのはない。)
「どちらとも取れる」ではなく、「いる」ことをここまで明確に示しつつ最後まで全く見せない映画は他にない。
完全にいるけど絶対見えない透明人間ものでさえ、実験で透明化するとか死んで不透明化するとかのシーンが映画の中にある。
そういうシーンを入れない映画になると「とうめいにんげんなんだけど」の歌詞みたいに、本当にいたのかは誰にもわからないんだ、って幽霊的なオカルト的な話になる。普通。
つまりホラーなら、見せない場合は普通「どちらとも取れる」がいちばん怖いのでそれが最適解となる。「いる」場合は見せる。この映画は、いるのに見せないというインパクト。
(あと長い半生の話とかだと思ったら1日とかの話だったので驚いた。)
まあ演劇が原作だから結果的にこういう映画が誕生するんだけど、映像でこれをやられるとすごみがある。
(他の人にはほぼ誰にも見えないというのは普通に考えたらわかってるはずなのにそれを考慮せず「友人を紹介するよ」とか誰に対しても絶対見える前提でいく主人公はやっぱ頭おかしいだろ……ってのはある……。そもそも変人なのは変人っぽいのでなんかそういうポリシーなのかもしれんけど……。)
あと『ラビリンス魔王の迷宮』とか『帰ってきたドラえもん』と同じ、卒業しないオチ系映画(『クマのプーさん』的なものへのアンチテーゼ)。