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尼僧物語のodyssのレビュー・感想・評価

尼僧物語(1959年製作の映画)
3.0
【美しすぎる尼僧は目の保養か毒か】

DVDにて。

オードリー・ヘプバーンが尼僧として登場するのがミソ。ふだんの彼女はラブコメで感情の起伏をわりに大きく表現しがちですが、ここでは修道女だけあって何事にも沈黙と従順を旨として生きていかなくてはなりません。したがって表情や動作は常時控えめ。でもそこがいいんですよね。彼女の魅力がかえって引き立ちます。しかし、逆に言うと、こんなに美人の修道女がいて大丈夫かな、という懸念もなくはない。

ここで思い出すのが、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』です。ジャベール警部に追われるジャン・バルジャンが幼いコゼットを連れて修道院に逃げ込み、そこで自分は庭師として雇われ、コゼットは修道女の卵として生活する。そのとき、幼いコゼットは容姿がぱっとしなかったので、「この子は醜い女になるでしょう」と検分した修道女たちが満足そうに言うシーンがあります。つまり、美しい女はなかなか修道女にはならない、という世間の掟(?)がさりげなく表現されているシーンなのですね。

閑話休題。美しい修道女の一挙一投足が魅力的であるとはいえ、前半は正直言ってちょっと退屈でした。修道女として正式に認知されるまでの日々。なるほど、修道女になるにはこういう過程を経るわけか、とは思いましたけれど、でもこんなに長くやらなくともいいんじゃないか、という気も。

後半、コンゴに出かけて無神論者の医師と出会うあたりから少し面白くなってきます。とはいえ、あくまで職分に忠実な彼女は、恋に落ちたりはしない。うーん・・・。

1930年代という時代設定なので、最後はドイツとの戦争が起こり、彼女は修道女であることをやめる決意を固めます。この辺、修道女の職分の限界がどの程度彼女の意識に高まっていたのか、逆に、修道女になる前は婚約者がいたのにもかかわらず婚約を破棄してまで修道院に入る決意を固めたのはどういう動機からだったのかは、イマイチよく分からない。

この映画の最初に、ヒロインが婚約指輪をはずして、修道院入りをする娘を送るために待っている父のところにいくシーンがありますが、そこで父はピアノでモーツァルト『フィガロの結婚』の「恋とはどんなものかしら」を弾いている。結婚を間近にしながらそれを捨てて修道院入りする娘。娘は本当の恋を知らなかったのだろうか、そんな父親の思いが伝わってくるシーンです。そしてそういう疑問は、観客にとっても最後まで消えないのです。

ところで、ヒロイン(ベルギー人という設定ですね)が出かけていくコンゴは、1908年以降ベルギーの植民地でした。それ以前もベルギー王の私領だったのですが、あまりに現地人に苛酷な政治を行ったので国際的な非難が高まり、ベルギー政府が王から引き受ける形で肩代わりしたといういきさつがあります。そうなってからは比較的良心的な植民地経営がなされ、この映画にあるようにカトリックやプロテスタントの聖職者たちも医療や教育に大きな役割を果たしたとされています。ただし、逆に言うと教育がキリスト教会にのみ頼って行われ、1946年まで世俗(つまり非宗教的な)教育施設は存在しなかったといいますし、また教育は初等教育に偏り、高等教育を現地人に受けさせるという発想がなかったなどの欠点も指摘されています。
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