Jeffrey

ドゥ・ザ・ライト・シングのJeffreyのレビュー・感想・評価

ドゥ・ザ・ライト・シング(1989年製作の映画)
5.0
「ドゥ・ザ・ライト・シング」

〜最初に一言、人種のるつぼニューヨーク。NYがブルックリンならLAはサウスセントラルと相場は決まっている。スパイクリー映画史上最も最高傑作と自負する本作は黒人問題を押し付け解決を他民族に委ねたLOVEとHATEの物語である〜

冒頭、ここは黒人の貧困層や、さまざまな民族が一緒に暮らしているニューヨークのブルックリン。ピザ屋を経営しているイタリア系店主と息子、常連の男、ボイコット、ラジオ、放水、火事、暴動、トラブル、衝突。今、問題の押し付け行為が映される…本作はスパイク・リー監督の最大級の傑作で、この作品からブラックムービーを全て見ることを決意したほどの衝撃をもらったALL TIME BESTの映画で、久々にBDにて再鑑賞したが大傑作。正直自分は主張が激しいリベラル派のリーは好かんし、この作品以外だと「マルコムX」その他の初期作位しか好きではないし、近年の映画は全然だめだめだけど、この映画だけは文句のつけどころが逆にありすぎて最高だ。本作はNetflixで配信された際に初の日本語吹き替えが制作されているようだ。

本作は全米で公開されるやいなや、数々の話題を撒き散らし、あらゆるマスコミに紹介され、一躍有名になったのと同時に、カンヌ映画祭に出品され、当時グランプリ(パルムドール)を獲得した「セックスと嘘とビデオテープ」以上にこちらの方が素晴らしいと評論家たちが騒ぎ、シカゴ・サン・タイムズの有名な記者が、会場にいたマスコミに、こんなにも素晴らしい映画がグランプリを取れないようなら2度とカンヌには来ないと言い放ったと言う伝説的な事柄がある。そしてその後、ニューヨーク批評家協会賞で撮影賞を受賞し、ロサンゼルス映画批評家協会賞では、作品賞、監督賞、助演男優賞、作曲賞受賞、ゴールデングローブ賞では受賞のがしたが、作品賞、監督賞など4部門にノミネートされ、最も世界の注目を集めた瞬間であったスパイク・リーの全盛期の最高傑作である。これを超える彼自身の映画はもはや皆無である。

この映画は冒頭から非常に魅力的である。どう魅力的かと言うと、PUBLIC ENEMYのラップファイトザパワーをバックに、ボクサーのファイティングポーズを繰り出すダンスで見せるMTV感覚のオープニングであることだ。見るものにパンチを食らわせるような映像とテーマ曲で圧巻する。あの女性がくねくねと踊るダンスは非常に目に焼きつくだけではなく脳裏に焼きつくのだ。そしてまだそこまで有名ではなかったいわゆる遅咲きの俳優として有名なサミュエル・L・ジャクソンがミスターセニョールDJとして次のカットで出てくるのも魅力的である映画ファンなら。確か彼は同じスパイクリー監督の「ジャングル・フィーバー」でカンヌ国際映画祭で当時助演男優賞というのがなかったが、彼のために急遽作られ贈呈したと言うことで有名になった役者だったと記憶する。違かったらごめん。

どういうわけかこの作品から黒人で占められていた彼のフィルモグラフィーに新たに登場する人種、イタリア人、韓国人たちが登場するのも新しい映画へのスタイルなのだろうと思う。そもそもプロデューサーと脚本と監督と主演を兼ねたリーが4作目にして新しい緊張感とユーモアとドラマで作った強固なテーマが何とも言えない。前作の「スクール・デイズ」では黒人大学を舞台に、学生たちの価値観の違いをミュージカルコメディー仕立てで浮き彫りにしていたのとは違って非常にシリアスな問題テーマを探っている。たった1日を舞台に描かれているが、そのパワフルに写し出されるワンカット、ワンカットが非常に印象的で、一角の夏のある暑い1日をヒップホップ感覚で取り込んでいる斬新なスタイルが素晴らしいの見ての通りだ。彼の作品の見所と言うのはまず野心的な音楽のチョイスだろう。ニューヨークのミュージックシーンを感じさせるラインナップを本作では取り入れていたし、舞台がブルックリンなので、そうしたのだろうけど、もし舞台がサウスセントラルだったらLAのようなミュージックシーンをチョイスしていたんだろうなと思う。そういえば同じブラックムービーで「サウスセントラル」と言う映画が昔あったが、まだ円盤化されておらずVHSのみだがこれもまた凄い傑作なのである。

ところでこの作品っていうのは断片的なものがー点に向かっていくようなストーリー性である事はお気づきだろうか。全編を通して暑さが最も主人公と言える役割を果たしているのだが、それはまるで人間の忍耐力を測る目安にしているのが本作の汗であり暑さであり太陽の日差しなのだ。なので所々に役者たちは思いっきりベタつく汗をかいているのだ。この映画は複数のエピソードが集まったかのような感じがして、何重にも楽しめる映画である。そしてこの映画を見終わった観客は皆こう思うはずだ。あの時このようなことをしなければこのような悲劇が起こらなかったんじゃないかと言うことにだ。それが壁紙に写真をもし貼った場合のストーリーと、ラジオのボリュームを静かにしたと言うストーリーが出てくる(映画を見てない方は今俺が何を言っているか多分さっぱりだと思うが)この2つの要素が改善されなかったがために、ロス暴動さながらの"ブルックリン暴動"が起きてしまうのがこの映画の本質である。


本作は冒頭にPublic EnemyのFight The Powerが流れる中エアロビクス、ボクササイズで始まる黒人女性のファースト・ショットで始まる。音楽と共に一度画面はフェイドアウトして、黒人男性がラジオスタジオで今日の予想最高気温をリスナーに伝えるショットへと変わる。カメラはゆっくりとスタジオからその外へと移り変わり、暑さが滲む中、小型扇風機をかけながら眠っている年老いた黒人老人が目覚める場面へと流れ込む。続いて、黒人男性がマルコムXとキング牧師のモノクロ写真を手に持ち2人とももう死んだと言い、×印を付ける。それをローアングルで固定ショットする(この時、ジャズの音楽が流れている)。彼は最後に人種差別反対と言い放つ。カットは変わり、この作品の主人公(監督自身) ムーキーがお札を数えている寝室の場面へ変わる。

さて、物語はブルックリンの黒人街ベッドフォードースタイヴェサントの日常が写し出される。街の小さなラジオ局ウイ・ラブ・ラジオを1人で切り盛りするミスター・セニョール・ラブ・ダディのDJがモーニングコールになって、その年1番の暑さを記録することになった夏の1日が始まる。この街に暮らし、職を転々とする腰の座らない人生を送っているムーキーは、今はイタリア人が経営するピザ屋の配達人だ。彼は、目先のことだけを考えながら、仕事の手を抜き、隙を作ってはガールフレンドと彼女の間にできた赤ん坊と過ごしている。彼が働くピザ屋の主人サルは、イタリア人の誇りを持っている男だが、その反面で、黒人たちの住むこの通りで20年以上も仕事をして近所の連中が自分の作ったピザで大きくなったと言うことを誇りに思い、街に愛着を抱いている。

ムーキーの手抜きも多めに見ている。店で父親の仕事を手伝うサルの2人の息子は対照的な性格の持ち主だ。兄貴のピノは、人種差別的な発言が目立っている。いつもイタリア人の住む街へ移りたいと考えているようだ。弟のヴィトは、ムーキーと仲が良くて店では傲慢な兄貴の態度に耐えかねているが、根がのんきな性格のためについつい兄に抑え込まれてしまう。いつも窓辺や玄関の階段に座ってて道行く人々を見守るマザーシスターは、街の母親のような存在で、誰もが彼女のことを慕っている。心優しき飲んだくれの市長メイヤーさんは、話し相手を求めて通りをうろついている。彼は目の前を通りかかったムーキーに、トゥーザライトシング(まともになれよ。意味合い的には正しいことをしろ)と諭す。メイヤーが1番話をしたいと思っているのは、マザーシスターだが、彼女はなかなか相手にしてくれず、アーマッド、シー、パンチー、エラといった今時の若い連中からは馬鹿にされる。しかし、彼は飲んだくれてはいるものの、走ってくる車の前に飛び出した子供を命がけで助けるように、自分なりの威厳を持って生きている。

この界隅で一番騒々しいバギンは、事あるごとに黒人としての自覚をエキセントリックにがなりたてて、ヒップの活動家を自認している。彼はサルの店の客が黒人ばかりなのに、壁に飾ってある写真がフランク・シナトラやロバート・デ・ニーロ、アルパチーノ、スタローン、トラボルタなどみんなイタリア系のスターばかりで、黒人スターの写真が1枚もないことに憤慨していた。サルは、お前がピザ屋を始めるときには、誰でもお前の好きなやつの写真を貼ればいいさと言って、バギンを相手にしない。このサルとバギンの諍いで、ただでさえうだるような暑さの街の熱気はまた上昇していくのだ。バギンは通りでサルの店のボイコットを呼び出す。巨大なビートボックスを軽々と抱え、パブリックエネミーのフィットザパワーを繰り返し流しながら街を歩くラジオラヒームは通りを牛耳ろうとするあらゆる音楽を強力なパワーで蹴散らし、悠々と歩くのだ。一方でこのブルックリンにいそうもないビジュアルをしている東洋人である民族が小さなスーパーを営んでいる。韓国人の若い夫婦は、酒だったら何でも飲むくせに銘柄にうるさいふりをするメイヤーや電池を買うのに個数や日付がどうのと怒鳴り立てるラヒームと行った一癖も二癖もある連中を相手に片言の英語で応戦する。

その韓国人のスーパーの向かいでは、噂話が好きな3人仲間スイート、ココナット、エムがビーチパラソルを囲んで自分達では何もしないくせに、よく働く韓国人をやっかんだり、マイクタイソンの悪口を言ったり、目の前を通り過ぎる女の子にいやらしい視線を送り、卑猥な花を咲かせたりしている。ラヒームは、サルのピザ屋にもパブリックエナミーの大音響で入っていったが、それが単なる騒音であるかのように音を止めろと言うサルの態度に憤慨する。愛の力によって憎しみを抑えることを趣旨としているラジオラヒームに憎しみの火が灯り、彼はバギンのサルの店をボイコットしようと言う叫びに賛同して街の熱気はますます上昇していく。サルの店の閉店時間が過ぎた頃、サルのピザのファンであるアーマッド、シー、パンチー、エラの4人組が店に滑り込み、それに続いてボイコットを旗印に団結した2人がビートボックスに大音響とともに乗り込んできた。暑い1日の仕事の疲れと大音響のために、ついにサルの怒りが爆発し、彼はラジオラヒームのビートボックスを野球のバットで叩きつぶしてしまう。店は大混乱に陥った。警官たちが駆けつけ、バギンを羽交い締めにした。暑さのために冷静さを失った人々は、誰も止めることができない悲劇と怒りのカタストロフに向かって暴走していった。

やがて、ムーキーは外に置いてあった大きなゴミ箱をピザ屋のガラス窓に投げ込み割ってしまう。それを皮切りに、暴走した連中たちが店の中に入りものをぶっ壊してレジの金を強奪したりカオス状態になる。警察官は死んでしまったラヒームの死体をパトカーの後部座席に入れてその場を逃げるように立ち去る。マザーテレサは何度も繰り返し同じ言葉を言い放っておかしくなっていく。ブルックリンと言う街が徐々に破壊されていくのだ。やがて夜は空け、破壊されたピザ屋の前で座り込むサルの元へムーキーが給料をくれと言いに来た…とがっつり説明するとこんな感じで、超絶大傑作である。ここまで人習慣を煽るような映画もないだろう。そもそも黒人の問題をイタリア人に押し付けて解決させようと言うこの魂胆が悪たらしいのである。わが国の隣国と似ているなと感じてしまった。


いゃ〜、傑作だわ、何時何時見ても傑作。あのジャンカルロ・エスポジート扮するバギン・アウトがダニー・アイエロ扮するサルのピザ屋に来て、ピザを注文する時から色々とつっかかってて席に座ってピザを食べようとした瞬間に壁に飾られているイタリア系の俳優やアーティストの写真ばかりに、黒人の写真を貼らないのかと絡んでくる場面、そこからボイコット運動呼びかけ、ここは確かにあんたの店だが、お客は全員黒人だ、イタリア系が来てるわけではないんだから黒人の写真を貼れ、マイケルジョーダン、マンデラの名前を挙げ突っかかってくる場面は圧倒的。こういうのを日本に置き換えて考えるとぞっとする。例えば日本人が新大久保の韓国系のお店にやってきて、ここは日本なんだから韓国人の写真なんて貼るな、日本人の写真を店に貼れなんて言ったら韓国経営者は困るだろうし、逆に韓国にある日本のお店に韓国人がやってきて、ここは日本の店だが韓国人ばかり来ているんだから韓国の写真を壁に貼れ、それは中国人にも言えるし、アメリカを始めとするヨーロッパの各人種に当てはまる。

Steel PulseのCan't Stand It (Soundtrack Version)が流れる中、女性が冷たい水に顔面を浸ける場面やシャワーを浴びるシーン、男たちがブルックリンの路上の階段でビールを飲んだりして水を流し込むあらゆるブルックリンの日常が映しだされる場面も非常に好きである。何より、真っ赤なレンガを背景に黒人の老人が3人世間話をしている固定ショットがたまらなくアート的で好きだ。そもそもそのレンガの場面が出るシーンがかっこよすぎる。カットが変わった瞬間に水色のバンが通り過ぎるのを捉えつつ過ぎた瞬間にロングショットでその真っ赤なレンガの場面が画面に映り込むのだからかっこいい。そして黒人たちがみず遊びをしている場面にクラシックカーを乗った白人(アングロサクソン系っぽくは無いけど)が通りかかった瞬間に、水を絶対にこの車にかけるなよと言って、でもそれはかけろって言う解釈になる面白さがあり、案の定放水で思いっきり水浸しにされてブチ切れて、警官にこいつら刑務所に入れろと激こうする場面も爆笑する。

今思えばウィル・スミスとのバディムービー「バッドボーイズ」で人気に火をつけたマーティン・ローレンスや俺の大好きなウーピー・ゴールドバーグ主演の「天使にラブソングを」の刑事役で出ていたビル・ナンもいる。彼は本作では重要なキーパーソンになっている。そんで、バギンが白人のくせにブルックリンに住んでいる若者に自転車で100ドルで買ったスニーカーを汚されてブチ切れて、追いかけ回す場面で、他の黒人のブラザーたちがあえて喧嘩をさせるように挑発して何かしらアクション起こさせる場面も圧倒的にすごかった。ああやって煽るだなと…。その流れで赤レンガの前で会話をしている黒人3人が、向かいのビルで大繁盛の韓国人のお店に対して愚痴る場面があるのだが、昔から黒人と韓国人て仲が悪いと言われていたが、それは90年代のラターシャハーリンズ射殺事件がピークに迎えて今もうなおあると言うのだから長いいざこざである。

そうそう、いざこざと言えばこの作品であらゆる黒人、ヒスパニック、コリア系たちが自分の心の思いをカメラに向かって話す場面があるのだが、その中の1人が1988年ソウルオリンピックでのキックボクシングのイカサマについて言及しているのだが、そもそも88年のオリンピックって世界的に評価が低いのはなぜなんだろうと改めて思った。聖火台での鳩焼き疑惑は有名でそのぐらいしか知らなかったが、今回本作を見返して、その点について色々と調べてみた。ロイ・ジョーンズ・ジュニアという選手がいて、彼が盗まれた金メダルを返してくれと涙ながらに訴えたことから盗まれた金メダル事件とされていたようだ。どうやらボクシング競技ライトミドル級決勝でアメリカのロイ・ジョーンズ・ジュニアが、地元の韓国の朴時憲から2度のダウンを奪ったにもかかわらず、2-3の不可解な判定で敗れたとの事だ。これがオリンピック史上に残る事件として知られるようになって、後に調査によって審判員5人の内、朴の勝利とした3人が韓国側によって買収されていたことが判明したと国際アマチュアボクシング協会が発表して、IOCの会長からジョーンズ・ジュニアには金メダルのレプリカが贈呈されたそうだ。この事件はアマチュアボクシングの採点システムが変更されるきっかけとなったともされている。

そして、ラターシャ・ハーリンズ事件で犠牲者となった黒人(アフリカ系アメリカ人)の少女が韓国系に殺された事件として有名な事件はここ最近映画に登場していてそれを見たときに驚いたものだ。ようやくラターシャハーリンズについて言及される映画が出てきたのかと…15歳のとき、ロサンゼルスの商店で銃撃され死亡した彼女はアメリカ社会において、黒人が被害者となった事件で量刑が不当に軽くなる傾向の代表例としてしばしば参照される重大事件の1つである。どのような悲惨な内容かと言うと、店を訪れたラターシャ・ハーリンズが瓶ジュースを自分のバックパックに入れたのを目撃した店主のトウに後から射殺されたのだ。どうも黒人の少年少女らによる度重なる万引きや強盗被害に悩まされていたらしく、その現場を見咎めた店主はハーリンズのセーターをつかんで対峙したとか。ちなみに彼女は支払いの小銭を手に持っていたそうだ。人1人殺しといて量刑も5年間の保護観察処分と400時間の社会奉仕、および500ドルの罰金で済んでいるのだから殺したい人間を殺せる世の中だなと感じてしまう。

そうそう、本作に関してはロドニーキング事件にも言及しなくては何一つ解決できない映画である。この事件は僕が生まれた91年の3月3日に起きたロス暴動へと進む重大な事件であり、後にエドワード・ノートンとファーロングが主演した「アメリカンヒストリーX」のモノクロバージョンのシークエンスでノートンが家族にロドニーキング事件に言及する場面があるのが、これがその事件の事である。ロドニー・キングはロサンゼルス市内を運転中、スピード違反容疑で警察車両から停車を指示され、強盗罪で懲役刑を受けた後の仮釈放中だったキングは、再収監されることを恐れて逃亡してしまい、警察が追跡ののち強制停車させると、車から降りたキングを警官らが取り囲んで激しい暴行を加えたのがロドニーキング事件なのだが、確か警察官にはヒスパニック系も混じっていたと思う。そしてキングはあごと鼻を砕かれたほか、脚と腕の重度骨折・眼球破裂などの重傷を負うと言うキングは悲惨な目にあうのだが、彼は2012年に自宅のプールに浮いているところを発見され死亡されている。

これ誰も言及していないのだが、サミュエル・L・ジャクソンとジェイソン・パトリック、ケリー・ワシントンが共演している「レイクビューテラス」と言う映画があるのだが、これ思いっきりロドニーキング事件を下敷きに新に解釈されている映画だと感じる。なんでそう思うかと言うと、まずタイトルのレイクビューテラスと言うのはロドニーキングが実際に交通違反をした場所であり、この映画の物語が黒人警官が黒人の嫁さんを手にした白人に嫌がらせすると言う映画なのだが、これが徐々にエスカレートしていくと言う展開がすごくスリリングで面白いのだが、思いっきり当時のロドニーキング事件の警察官と被害者のキングを間逆に設定して描かれていると感じる。ちなみに裁判所のあったシミバレーは白人住民が多く、陪審員の過半数も白人だったことが無罪評決となった原因の一つであるといわれるのも大切な情報の1つだ。

それからこれは誰も言及していないが(俺が知るところだが)ピザ屋の店主と息子が韓国人が経営する店の見えるテラスでここは猿の惑星だ、こんな場所から早く出て行きたいと言う件があるのだが、「猿の惑星」と言うのは主に黄色人種である日本人を描いたとされているのは有名だが、あえて同じ見た目の韓国人のお店を背景に猿の惑星と言う言葉を出しているのも何かしらの意味深さがあると感じてしまうのは疑い深い俺の行き過ぎた妄想だろうか…。ちなみにスパイクリー演じるムーキーがクンタキンテと妹であるジェイドに言う場面でのその言葉の意味はアメリカで大ヒットしたテレビシリーズの「ROOTS」の主人公の名前である。実際にクンタ・キンテ島と言うのもある。このテレビドラマシリーズも傑作なので気になった方はぜひお勧めする。ラジオ・ラヒーム がラジオの調子が悪くなって、電池を20個購入しに韓国商店に入るときに、これまたラヒームと韓国店主と嫁さんとの言い合いが面白い。というかカットバックが笑える。そこから市長の老人が冒頭で口げんかしていた人妻的な女性に韓国商店で買った花を差し上げるロマンチックなシーンに変わるのも素敵である。

そういえばムーキーがジェイドに氷で体を滑らすように濡らすシーンがあるのだが、唇だったりおっぱいだったり、それってキム・ベイシンガーとミッキー・ローク主演の「ナインハーフ」を彷仏とさせるシーンである。そしていよいよラヒームとバギンがピザ屋に押し入ってボイコット運動をするぞと脅し始めるシーンで、店主が店の中でうるさくするラジカセをぶち壊したのが着火点となり、大暴動へとなる本作は89年の映画で後の91年のロサンゼルス暴動をまるで予知していたかのような場面がまさにここに写っているのだ。そして暴動を惹きつける行動をしたのがスパイクリー演じるムーキーで、店にゴミ箱を投げつけ窓ガラスを割って、そこから今も変わらない極左団体のアンティファが行っている強奪や暴動が思いっきりこの時代から見受けられる。この映画何が凄いかって、他の役者が店をぶっ壊すのではなく、監督自身による主人公が火付け役となって暴動を助長させている点と何よりこのイタリア系家族は全くもって悪くないと言う点である。黒人の中の1人ラヒームが警察によって窒息死させられ殺されたのを皮切りに、ラジオがそんなに悪いのか、黒人の写真を飾れって言ったから殺されたのかと歪んだ解釈をしてイタリア系の人々に問題を押し付けるところである。これは今とも全く以て変わらないのだ。

そうして、店は燃えて何もかもがなくなってしまい、落胆した店主とムーキーが最後に給料の話をする場面で終わり、キング牧師とマルコムの2人の言葉が文字化されエンディングになるのだが、店主が言い放つロックフェラーも真っ青だーと言う言葉のロックフェラーと言うのは世界最大の石油トラストとして君臨したスタンダード・オイル創始者のジョン・D・ロックフェラーの事である。予備知識的に。そんでこの作品スタイヴェサント通りのレキシントンからクインシーまでと言うたった1つのブロックの中だけを空間的に舞台にして、ベッドースタイ地区のいくつかの場所がロケーションハンティングの対象になっていると思われるのだが、その中で主人公のムーキーがラヒームの死によって初めてそのシークエンスだけ政治的な抑圧をぶつける貴重な場面がある。そんで、決してイタリア人ピザ店主は混在的人種差別主義者とまで言い切れないと俺個人的には感じる。この映画すごく巧みに作られているんだよ、と言うのもうまく逃げ道を作っているというか、一方的な主張を言っているように見せかけつつ、一応回避もしている。

何が言いたいかと言うと、他のキャストの黒人たちが一方的にイタリア人のヘイトを行うのだが、そこに必ずフレキシブルに中和性を持って対応するのが主人公で監督のムーキーなのだ。しかし先ほども言ったようにクライマックスで彼が暴動の中、唯一政治的に熱くなる場面は例外として、彼はそれまで温厚な性格でそのいざこざを幾たびも止めようとしている姿が写し出されている。そこで一方的なヘイトを行うといったが、違うカットではきちんとイタリア系の家族が黒人に対しての差別的な主張も映しているのだ。いわゆる同じ画面でヘイトを言い合っているかと言うよりかは、クロスカットされた場面ごとのヘイトの繰り返しが写し出されている。それが非常に巧みである。決して別人種同士を1つのフレームに収めて口喧嘩させる事はクライマックス以外はほとんどない。もちろん反抗的な黒人に対してまっとうなロジックで対抗する場面はワンサカ出てくるが、決してヘイトスピーチを行う場面は無いのである。逆に反抗的な黒人が言っている事も彼からしたら真っ当なロジックでぶつけているのだ。しかしながらそれは相容れなくて、互いの正義が噛み合わなく平行線をたどる一方である。

ちなみにスパイク・リーが映画で着ているユニフォームはジャッキー・ロビンソン(最初の黒人大リーガー)の名前が入ったブルックリン・ドジャース(57年にロサンジェルスに移った)のものであるから非常に興味深い。まるで自分のことを映画界のジャッキー・ロビンソンだと言いたげな感じがして…。それにしてもやはり勘ぐりたくなるのが、この作品のクライマックスにある黒人暴動である。激動の60年と言われるほどキング牧師とマルコムが人種差別と戦った壮大な時代がある事はご存知だと思うが、その60年から70年にかけてはフランスとベトナムのディエンビエンフーの戦いを皮切りに、アメリカ軍が介入してベトナム戦争へと勃発していく地獄のような時代なのだが、そういった中90年代の頭にロドニーキング事件を筆頭に、ロス暴動が起こり、白人たちが怯えたと言う話はご存知の通りで、この作品を当時89年に鑑賞した白人はかなりの割合で恐怖を感じだと思う。だって、これはどう見たって暴動を助長させる映画であるからだ。

実際に映画の封切りの約2ヶ月後(89年8月23日)にブルックリンのイタリア人居住地区ベンスンハーストで、数人の黒人少年が地元のイタリア人少年グループに襲われ、そのうちの1人が銃殺されると言う事件が起こっているし、しかも興味深いことに、映画のピザ屋サルとその息子たちは、ベンスンハーストに住んでいると言う設定であるから皮肉なものである。しかし、取っ組み合いから警官がやってきて加減の知らない警察官が黒人を棍棒で首を絞めて窒息させ殺してしまう場面と言うのは今年に起きた白人警官による黒人殺害の事件と似ていると感じた。というか決して警察官が一方的に悪いと言うよりかは、犯罪者を捕まえるため必死に命がけでやっている分、多少行き過ぎてしまうこともわかるのだが、それにしてもへたくそな対応でうんざりする。今となっては白人が黒人警官に殺されたからって何一つニュースにならないが、白人警官が黒人を殺したとなればそれはどんなに被害者である黒人が犯罪者であってもすべてはいい人だったと逆転するのだから恐ろしい世の中だなと感じる。この作品のクライマックスで死んでしまう黒人青年もそうだろう。暴力的にと言うよりかは、無関係な警察官が一方的に黒人をむやみに殺してしまうと言う、だから、それは当てはまらないかもしれないが、まぁ色々と凄い映画である。とにかくピザ屋の家族は焼き討ちにあってしまうし、しかしながら非人間的な扱いをされず、決して黒人たちによる暴力が彼ら一家に襲いかかると言う事はこの映画ではなかった。それが唯一の救いだったのかもしれない私にとって。

そうだな〜この映画を見るとこのブルックリンと言う空間ではあくまでも黒人がイニシアチブを握っておきたいと言う欲望が見て取れる。基本的に白人がイニシアチブをとっている米国だが、潜在的にはやはり白人が有利でなくては不愉快で怖いと言う感覚がアングロサクソンにはあるのだろう。今となっては黒人の大統領も出てきて、後に副大統領から女性初の大統領それもアフリカ系とインド系と言う非白人がなる可能性があるのだから90年代の米国と比べたら圧倒的に変わってきているとは思う。しかしながらイデオロギー闘争によりアメリカのデモクラシーは崩壊し、2極化し、分裂し、世の末的な状況が偏向報道で垂れ流される今日にとって、この映画は奇跡的に意義のある映画だったんだなと感じてしまう。確かにこの映画もプロパガンダ映画と言えばそうかもしれないが、今の腐るほどあるプロパガンダ映画よりかは行き過ぎてないし、きちんとした主張と相手の尊重をうまく取り入れている面もある。だからこの作品は嫌いになれないし、スパイクリーと言うリベラル派の監督は好きでは無いのだが、この映画に対しての姿勢には拍手喝采を送りたいと思う。

ただこの映画を見てふに落ちないのがクライマックスの後のエンディングロールである。この作品のエンディングロールではマルコムXのコメントとキング牧師のコメントが出てくるのだが、最初にキング牧師のコメントが出てその後に自己防衛のための暴力を肯定するとマルコムXのコメントが出てくる場面なのだが、監督は果たしてどちらの言い分が正しいのか、観客にどのようになって欲しいのかと言う意味がよくわからなかった。確かにキング牧師は後にマルコムの己の身を守るための暴力は知性と呼ぶべきだに賛成していたのだから、結局は後者の言い分なのだろうか、私にはわからない。南アフリカのノーベル平和賞受賞者は黒人は暴力を持ちこもうなどとは考えていない。現状が既に暴力に満ちているのだと言っているのをふと思い出すと、さらにコンガラがってしまうのだ。というか南北戦争後の奴隷解放が起こったとしても、奴隷的な黒人の立ち位置はほぼ変わらず、アメリカだけではなく南アフリカ政府だって暴力的態度を黒人によって、奴隷制のようなものを取り入れているのだから、アメリカだけが奴隷を行っていたのではないと白人が言えてしまう要素にもなるだろうし、黒人は殺されるのをうんざりしていると言う本があるように、とにかくどのような解決案が最も適しているのかこの問題には明らかにされない…。

黒人から言わせてみれば、白人警察の態度は基本的に今でも変わっておらず、警察によって権利を守られるどころか、逆に巧みに自由を制限されて警察の方針は、相手が黒人なら徹底的にやっつけて殺しても構わないと言うスタンスがあると発言するだろうし、白人からすれば、マイノリティーである人種が多少行き過ぎたことをしても何でもかんでも許されると言うスタンスに立っているのはおかしいと言う意見を述べるだろうし、もはや正義が相容れないのだ。例えばセントラルパークでの白人ジョガー暴行事件を引き合いに話すと、容疑者の黒人少年たちが15歳前後で、捕まって親にも面会させず、黙秘権や弁護士に相談する権利についても全く教えず、長時間の監禁状態で無理矢理自白に追い込んだと言う事件があるように、加害者が黒人の場合でも、黒人は悪くない、白人が無意味に黒人を犯人に仕立てたと言われてしまうのだからお手上げだろう。とにもかくにも白人が何かをすればバッシングを受けて黒人が犯罪をしても犯罪を逆にされたとしても黒人は悪くないと言うスタンスに立っているのが今の現状なのだから困り果ててしまうのもわかる。

それにしても黒人同士がというか同胞として殺し合う縮図が今もあると言うのはもはや解決は困難なのだろうか。そういったブラックムービーが山のようにあり、象徴的なのがシングルトン監督の「ボーイズ'ン・ザ・フッド」であり、黒人同士の暴行や殺人の件数が人種間の事件より圧倒的に多いことが指摘されているのも事実だし、黒人自身の自覚の必要性はその点についてはかなり必要かと思われる。そもそも基本的に白人の権利や財産を守るために存在している米国で差別をなくそうと言う試みがまずかなり大変な運動と言うことを理解しなくてはならないと思う。そもそもキング牧師が公民権獲得への功績をつかみとり、それが学校教育で教えられても、マルコムXがほとんど教えられないと言う米国の縮図も驚きである。それもそのはずなのかもしれない。公民権の枠を超えて国際的観点から人種差別を見て、全世界の黒人もしくは人権と言う物を奪われている人々すべての団結を解いた。マルコムは非常に脅威なのかもしれない。なので無視されてきたのだろう。

ラップとアフリカ系アメリカ人の伝統ともいえるべき様々な音楽、ストリートミュージックがこの作品には流れ込むのだが、黒人音楽は商業主義に毒され骨抜きになっていく中で、様々なニューポップが現れる今日では、その政治意識の高いグループが全く現れなくなったのは非常に残念である。基本的にラップと言うのは女と金と言う内容ばかりが歌われている。この頃はそんなものではなかった。もっと政治色が強くて、リズムと言葉だけで勝負するようなラップがごく自然な表現方法で現れていて、強いメッセージを伝えていた。ラヒームがごつい指輪をしていてそこにはLOVEとHATEの文字が刻まれており、それをムーキーと挨拶する場面があるのだが、その時の特殊な握手の仕方は西アフリカの急進的若者が始めたもので、同胞愛を意味するものなのだ。そういったあらゆる要素を駆使して自分たちの現状を表現しようとする黒人社会の新しい文化が垣間見れた瞬間である。ところで、マイケルジョーダンのスニーカー(Nike)を履いているハイテンションで血の気の多いバギンが自転車乗りの白人の男に踏まれて、汚されてしまってブチ切れる場面があると先ほど述べたが、その場面が非常に面白いのだ。何かと言うと、社会的背景が含まれているからだ。そもそもバスケットの神様もしくは英雄と言われているマイケル・ジョーダンにちなんだNikeのスニーカーなのだが、もちろん値段は高い。これを踏んだのが白人のクリフトンと言う青年で、彼がその時に試着していたユニフォームはジョーダンのライバルの白人選手ラリー・バードのものであって非常に笑えた。

そんでその白人が唯一黒人街とされるブルックリンで(多分一人暮らし)生活しているのも非常に肝の据わった奴だなと思うのである。実際にここは自由の国だ。どこに住もうとかってだろうとバギンを論破してしまう始末なのだから。しかしバギンにとっては政治的経済的弱者である我々黒人は住む場所を選ぶ自由がないのに、なぜ白人は選ぶ自由があってわざわざブルックリンと言う街を選んだのかと言う疑問はあったのかもしれない。そういえば、この作品が89年と言う事は、翌年の1990年のアカデミー賞やゴールデングローブ賞の候補になってもおかしくないような作品だが、というか結局候補にはなっているのだが、受賞にはなっていなかったと記憶している。そして確か何かで読んだことがあるのだが、ドゥザライトシングが何も受賞しなかったことによって、キム・ベイシンガーが壇上からこの作品が受賞できなかったことを残念的な言葉でスピーチしていた記憶がある。少し記憶があいまいなので違うかもしれないのでそこら辺を少し個人で調べて欲しい。

この作品は非常にミュージカルの要素が強く感じられ、無意識のうちにどうしても抱いてしまう黒人のステレオタイプが根本から崩されていく感じがあり、エンターテイメントとしても楽しめる作品であることから、実はオーソドックスな映画監督だなと改めてスパイク・リーのことを思った。でも監督自身、ヒップホップよりもジャズやブルースの方が圧倒的に好きってインタビューで言ってたのに、あえてヒップホップを選んだのはメッセージ性が強力だからだろう。
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