SclambreGecko

パラダイス・ナウのSclambreGeckoのネタバレレビュー・内容・結末

パラダイス・ナウ(2005年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

「彼らは自分たちを被害者だと確信している。占領者が被害者だと? 彼らが加害者と被害者の役を同時に演じるなら、僕らもそうするしかない。被害者であって、殺人者になるしか…。」というセリフが、両国の関係を端的に物語っているのではないだろうか。

19世紀後半に欧米で反ユダヤ主義が拡大し、それにより起こったシオニズム。そこには、ユダヤ教徒が集団的に迫害されたという事実がある。その事実をもってしてユダヤ教徒は、パレスチナへの移住を開始した。ここには被害者意識が当然ある。しかし、元々はアラブの人々の土地であり、そこへ半ば強引に押しかけ、国家を形成していったというのはアラブ人側からすれば納得のいくものではない。またその後のオスロ合意においても、両者の思惑は隔たりを増すばかりであり、2000年代には第二次インティファーダへと突入していくこととなった。

宗教というものは本来争うためにあるものではない。しかし、自らの信仰する宗教に相容れなかった時そこには不寛容が生まれる。また、相手の信仰する宗教をよく知らないままイメージで判断することの愚かさが、そこにはあるのではないだろうか。私たち日本人もパレスチナ問題と聞くと、野蛮な攻撃を仕掛けるイスラム教徒たちというイメージで全てを判断しがちである。しかしそこにある文脈には、そんな簡素化した言葉で語れるものなど何一つない。モラルの戦いは世界中で起こっている。

この映画で最大のポイントとなるのは、主人公が密告者の父親を持っていたという点である。密告者として処刑された父を持つ息子の思いは、当然イスラエルへの対抗心へと変わる。しかし、そんな彼に思いを寄せる女性の父親は殉教し、英雄とされる。両者ともに、父親を無くしているが、その理由は全く別のものであり、二人の間を隔てるものは復讐心があるかないかであろう。

自らの尊厳のために行動を選択する。その裏には、父親の亡くし方が大きく影響している。二人の父親がどの様な思いで亡くなっていったのか、私たちは想像するしかない。しかし、「平等に生きられなくても、平等に死ぬことはできる」という言葉を聞いたサイードは、その死を尊ぶ選択をする。「正義も自由も奪われたとき人は戦うしかない。」という断定の言葉には、どこか危うさを覚える。しかし、この戦いは今も続き、終わりを想像することすらできなくなってきている。尊厳と復讐。宗教が私たちに教えてくれるのは、この二つなのかもしれないとすら感じた。