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地獄の黙示録のakqnyのレビュー・感想・評価

地獄の黙示録(1979年製作の映画)
4.0
ワーグナーをかけながら機銃掃射をするように、ナパーム弾でジャングルを焼きながらサーフィンをするように、地獄は人間の全てを狂わせるように思える。生も死も愛も憎しみも入り混ざり、どちらもあるしどちらもない。

人間を殺し子犬を愛でる。敵から槍を受けながら味方を恨み死んでゆく。地獄の中では、人間は揺れ動く曖昧な存在である。そしてその曖昧さは人間を更に引きつける。


この映画でウィラードもカーツも共通して居場所を求めてさまよう元エリート軍人の姿で描かれる。ベトナムにも故郷にも居場所はなく、中年ながら若い兵が派遣される前線に志願して戻った。そこに主体性はなく、ただミッションをもとに動く。地獄はその曖昧さゆえにむしろ居場所があるのだ。ミッションを帯びた彼らには恐れはなく、死に場所を求めながらむしろ生き生きとしているようにも思えるくらいに。

しかし彼らは地獄の果てに辿り着く。

「地獄の恐怖には顔がある」

思えば人間の戦争がこんなにも醜いのは、人間が人間たらしめる理性を捨て去れないからではないか。逆に言えば完全に理性を捨て去った争いは"完璧で純粋明確な"争いなのだ。たとえ腕を切り落とし顔を剥ごうとも醜さはそこにはなく、ただの行為としてのみ存在する。そしてその瞬間人間は人間ではなくなる。

ミッションを淡々とこなし死に場所を求める彼らは思ったのだろう。自らがもはや人間ではなくなりつつあることに。自己の喪失と主体性の欠如は人間を曖昧な存在から、もっと無機質な何かに変えてしまうのだと。

その事実の恐ろしさを前に、カーツは人間として死ぬことを選び、自らを裁いた。そしてウィラードも自らの手で殺め、自らの手でラジオを切った。


「曖昧さこそが人間を人間たらしめ、また同時にその曖昧さが地獄を生むこと」
コッポラはこの映画で人間の内にある曖昧さを肯定しながらも、その曖昧さが生む地獄について、また曖昧をなす上で大切な意思や主体性の存在について描きたかったのではないか。


(ドアーズの「ハートに火をつけて」にあるThe End、この映画で使われてたんですね。大学入りたての18の頃、村上龍の69で知ってヒッピーカルチャーとか学生運動とかベトナム反戦運動なんかの歴史に初めて触れたのを覚えてます。それにしてもこのアルバムは名盤。)
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