やまちゅう

禁じられた遊びのやまちゅうのネタバレレビュー・内容・結末

禁じられた遊び(1952年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

「遊び」について学びが大きかった。
個人的にUXの勉強で「遊び」をテーマとすることがある。

タイトル通り「禁じられた」遊びについて考えながら鑑賞した。
遊びとは、スリルを伴い、独自の世界を持ち、挑戦し、報酬を得て、適度に失敗する行為だと言える。

この映画で描かれた「遊び」は、子供にしかできない「遊び」だった。
子供は倫理観が無い。無邪気で、美しくて、残酷だ。
戦争という、生死が日常にあり、周りの大人たちが強く合理的にふるまう時代設定でこそ、その子供の倫理観を無視した、残酷で無邪気な「遊び」があった。

基本的に「コレクション」の類としての「遊び」であった。
十字架を集め、動物の死体を回収(時に作り)、それを秘密の場所にレイアウトする。
秘密裏な行為であり、おままごとであり、愛情を感じる無邪気な遊びだった。子供だからこそ死体に対する畏れが欠落しているだけで。

ただストーリーの後半では、この「遊び」の意味が変化していった。
死体や十字架といった「おもちゃ」は、
大人たちと対等に交渉するための「道具」になった。

「遊び」は2つの世界を持つ。一つはそれ自体が世界を持つもの(ポケモンやモンハンなど)。
2つ目に「遊び」を通して実世界に影響を与えるもの(ポケモンGOやスケボーなど)
まさにこの作品の中での「遊び」は、一つ目から二つ目への「遊び」の推移が描かれていたように思う。

そして物語の最後、孤児である女の子はあっさりと赤十字に連れていかれてしまう。
首からタグを付けられて、多くの雑踏に囲まれながら、自分は「選択され所有される存在」になっていた。
この「赤「十字」」がまさに巧妙なアナロジーであると気が付いた。
「動物の死体や十字架をおもちゃのように」集めていた女の子は、
「自分自身が十字架をかけられて選ばれる大人たちのおもちゃ(わかりやすくあえて厳しい言い方をしておく)」にされてしまった。

あれだけかわいらしく描かれていた女の子が、
最後にはまさかの因果応報的な扱いを受けたことは意外に感じたが、
世の中は全て「遊び」で成り立っている、という『ホモ・ルーデンス』の考え方はよく現れているのかもしれないと感じた。
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