意匠に寄りすぎ。といっても1時間半見れるほど格好良くはない。アヴァンギャルドなのは結構だけれど実際に機能するか考えたら、この映画とは真逆の保守的な映画の方がよっぽど機能するだろうし、もしくは商業映画の方がまだ効くと思う。この映画がやってることはムカついた奴を思うままに殴ることであって、一旦落ち着いてもっと痛い目に合わせないと。それに秩序のないイメージの連続はおれらの普段の生活そのものでありわざわざ見る必要がない。格好良いだけで1時間半見てもらえる自信ある感じもだるい。
1年くらい前に古本屋でこの映画についてのデレクジャーマンへのインタビューが載っている本を見つけ、レアなんじゃねとか思って購入し、この映画を見た後に一読した。
この映画が機能しない例としてカリフラワーのシーンで教会音楽が流れていることについて「キリスト教の慈悲のイメージを喚起することで、観客が現場に何も手を差し伸べないでいることに、罪悪感を覚えるように仕向けたかった」とある。しかしどんな敬虔なクリスチャンでもそうは思わないだろ。インタビューの中ではこういった小ネタがポンポン披露され、映画というよりはインスタレーションを作るようなアプローチで、形而上の問題よりも現実的な問題意識を持った映画であることが分かる。だとしたら尚更もう少し分かりやすくできたんじゃないかと思ってしまう。仮にデレクジャーマンが映像作家と自称していれば、そこまで文句はないが「自分は映画のための戦いをしてる。作家のダイレクトな経験を用いる映画を育てるための。」と本人が言うのだから仕方ない。作家主義的であればあるほど良いと言う考え方が気に入らない。浅田彰が寄稿した文章はちょっと面白かった。ラストオブイングランドでは映画が規制された運動から外れる契機となる「不動化に向かうベクトル」と「極端な運動に向かうベクトル」を統合していると述べられているがおれには後者のベクトルしか存在していないように思える。例えば叫びとささやきではラストオブイングランドほど過剰なモンタージュをせずとも難なく2つのベクトルが統合されている。