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フィッシャー・キングの13のネタバレレビュー・内容・結末

フィッシャー・キング(1991年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

父がこの監督の作品が好きだと言うので視聴。
正直父親と好きな作品の系統が違いすぎる事は既知であるのでこれも親孝行の一種か。苦行かもしれないけれど一緒に映画を観る機会があとどれほどあるか分からないし見てやるか…くらいの気持ちであった。

成人してからやっと映画を年に数本ほど見るようになった人間であるので自分が生まれるより前の作品を楽しめるとは思っていなかったが、視聴後の今は案外いいじゃん…と感じている。大変上から目線な物言いである事は申し訳ない。

ストーリーは過激発言で大人気のラジオDJだった主人公ジャック、彼のトークのせいでショットガン乱射事件が起き、落ちぶれるところから始まる。
飲んだくれ自殺しようとするジャックを襲う浮浪者狩りからホームレスのパリーが救ってくれる。何の因果か彼は元大学教授で美しい妻もいたのだが、例の事件で全てを失い狂ってしまった事を知る。
彼に金を押し付け贖罪としようとするが、中々上手くいかず嫌々ながらも付き合っていく内に彼を幸福にしたいとジャックが奮闘する話である。

この映画はコメディとされているが、自分には全く笑えなかった。
というのもパリーという男は妖精が見える、赤い騎士に襲われるだのと妄言を吐き続けている。公園で裸になって横になるなど思考が支離滅裂で明らかに病気である。
また、彼が妄想で助け出した相手もまた立派な口髭を蓄えながらキャバレーの歌手を名乗る所謂「オカマ」であった。
当時であればまだ彼らを笑う時代であったのだろうか?しかし、現代に生きる自分には彼等を嘲笑の対象とする事は道徳的に難しい。
だから、父親が面白いと感じているのが愉快の意であれば同じ気持ちでは見る事は出来なかった。

しかし、そう言った前時代的表現、技術を除いてストーリーを見れば真の友情の物語でありとても良かったと思う。
ただ、同時にこのストーリーは前述した前時代的表現に溢れているからこそ良いのだとも思う。

今、このストーリーをなぞろうとしてもパリーのような精神疾患のある人間は出せないし、パリーとリディアを繋いだキャバレーの歌手もきっと別のキャラ付けがされるのであろう。
最後のシーン、ジャックとパリー二人で裸になって公園で寝転がる事は無かっただろうし、パリーは元の大学教授としてのヘンリーに戻ってめでたしだったかもしれない。
世間一般の目から見ればクセが強すぎる登場人物達に囲われジャックも狂ったように見えるかもしれない。
しかしそれは狂いなどではない。ただ友人の為。

この感想が父と同じだとは到底思えない。自分には受け入れ難い表現もあった。しかし、たとえ同じじゃなくても父の好きな作品を一緒に楽しめて良かったと思う。

以下印象に残っているシーン
・ジャックの恋人が男女関係について語るシーン。
「神は人間を自分に似せたと言うがそれは間違い。人間は悪魔に似せられたのよ。
でも女は神(子供を産む=創造=神)に似せられた。だから男と女は惹かれ合うの」
面白い考え方だなと思った。
・パリーがリディアに自分の気持ちを伝えるシーン。字幕版で見たのだが1回目のI love you.は君に恋してる。2回目のI love you.は君を愛している。と訳されてるのがオシャレだった。
・リディアとのデートを終えたパリーが幻覚に駆られ街中走り回った後に浮浪者狩りに襲われたシーン。浮浪者狩りの背後に炎の騎士が見えていたパリーはナイフで切りつけられながら「ありがとう」と零す。
このありがとうと笑顔が忘れられない。
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