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サクリファイスの記録のレビュー・感想・評価

サクリファイス(1986年製作の映画)
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まず私はタルコフスキー作品を観たなんちゃってシネフィルにしばしば散見される「分からなくてもいい」と言った類の感想を徹底的に軽蔑する。産み落とされた作品を「分からなくてもいい」ことなんて絶対にありえない。それが極めて愚鈍な運動神経しか持ち得ない駄作であっても、己の怠惰と乏しい頭脳を無視して理解する態度を放棄するファッキンクソ野郎は映画を見るな。鑑賞者たる者は例え理解する事が不可能と思えるような作品に出会ったとて、なんとかして咀嚼しようとする態度を見せろ。あらゆる文献を探って絶対に理解してやるっていう気概を見せろ。その結果どうしても理解する事ができないのであれば口を噤んで通過しろ。「分からなくてもいい」なんて態度は制作の全てを否定する愚かしい傲慢だ。
けど俺は優しいからタルコフスキー映画の見方をなんちゃってシネフィルにも分かりやすいように伝授してやる。ありがたく思いなさい。

タルコフスキー映画を「分からなくてもいい」とする鑑賞者はタルコフスキーの映画を「物語るもの」として捉えようとする。しかし実際のタルコフスキー映画とは「生きるもの」であってここに大きな断絶がある。簡単に言うと前者はストーリーを追っていく見方で、後者は現在を知覚し続ける見方なのである。例えるならば小説と詩は同じく活字を用いた芸術表現ではあるけれどその読み方は大分ちゃうよなっていうことだ。タルコフスキーの映画は極めて詩的であって一つのシークエンスが物語の導線を追っていくのではなく、あるイメージを浮かび上がらせるような抽象的な枠組みにとどまっているからこそ小説的に物語の導線を追っている視聴者は孤立無援の状態に取り残されてしまう。だからタルコフスキーの映画を才能に乏しい芸大出身のメンヘラが作ったアートフィルムと並べてみるとその見方がだいぶ明瞭になる。けれどタルコフスキー映画の深淵はイメージを導く道具であるはずの被写体が生々しく映像の中に存在している事実である。メンヘラアートフィルムメイカーはメンヘラが故に己のうちにある感覚を映像に念写したいと強く望み、その結果被写体の存在がただの道具へと変換されてしまう。これはプラモデルと同じような構造で最終的に辿り着きたい感覚(=ガンダム)を作り上げるためにそこに映る被写体を監督本位のただのパーツのように扱ってしまうのだ。(「夜の電車」とか観てくれ)しかしタルコフスキー映画では目指している感覚はメンヘラアートフィルムに似通って遠からずであるのに、そこに写っている被写体はイメージを想起させるためのただの道具ではなく、確実に生きている。「サクリファイス」の冒頭では海辺の草原に佇む男とその子供をかなりの余白を用いて収めているが、このシーンにはまるで俳優の身体が映画の撮影現場に付き纏うあらゆる制限からポーンと放り出されているような感覚が漂っている。なんなら俳優が勝手に演技しているような。これは映画において極めて恐ろしい事態であって、俳優が物語らない、次の瞬間に彼らが何をしているのか検討もつかないという状況が既に映画冒頭から展開されている。その後の屋内のシーンでは舞台演出的に組まれた演者の導線と、ふいのカメラ目線による異化が作用しまるで演者を取り巻く背景さえもがその役割から解放され、ただそこにあるという感覚に陥る。映画的制約から解放された草木が揺れ不意に水が流れ出し、家屋が軋む。この映画を見た人ならわかると思うがここまで演者が次に何をするのか分からない映画は他にあるだろうか。それは演者が物語るために存在しているのではなく、ただ映像の中で生々しく現在を生きているという事実を浮かび上がらせる。タルコフスキーは映画監督というよりもむしろ映像を使った詩人であるのだ。
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