かわたん

出来ごころのかわたんのレビュー・感想・評価

出来ごころ(1933年製作の映画)
4.0
辱しめを受ける父親像は、以前の小津作品(『東京の合唱』『生まれてはみたけれど』)にも見られるものだが、ここまで顕著にだらしないのは初めてだな。息子から、ビンタを執拗に食らうシーンは思いの外長くて笑ってしまった(『青春の夢今いづこ』の終盤とも重なる)。他にも『青春の夢今いづこ』と重なる部分がある。それは冒頭で主人公を演じる坂本武が寄席を見てる最中に、空の財布を拾う場面。これは、『青春の夢…』でも大学の小使を演じていた坂本武が同じことをするコミカルなシーンが存在する。

形式的に気になる部分はいくつかあるが、一つはモチーフとして幾度か出てくる時計。特に目覚まし時計が何度も登場し、最初に登場する場面では、目覚まし時計が置いてあるだけでなく、息子がそれを模写している。また、中盤以降、台詞字幕を入れるタイミングも徐々にバリエーションが増えたように思われる。それまで「口元が動く人物のショット」→台詞字幕だったのが、台詞字幕→「口元が動く人物のショット」or「口元が動かない人物のショット」という繋ぎ方が後半幾度か見られる。また、毎度のことながら360°切り返しの図柄の類似は見事。

個人的にこの映画の魅力の一つは、親子関係にあるように思われる。本作では、子供が父親にモノを教えるという、通例とは逆転した関係性が見られるが、それは、子供が父親へ教えた文句の内容とアナロジーになっている。具体的に言えば、「手の指が5本なのは、手袋の指の数と合うため」「海がしょっぱいのは、そこを泳ぐ鮭が辛いから」といった、逆転した因果関係を少年が父に教える。終盤この文句は、単なるギャグとしてではなく、喜八にとって重要な言葉になる訳だが、一体これは何を意味しているのか。これは、あくまでも自分の類推でしかないけれど、彼の人情的な気質や彼の生活は、彼自身を起点にしているのではなく、むしろ、彼の周囲の人々によって形成されているということを意味しているのでは無いだろうか。物語のラスト、その警句を思い出した喜八は船を飛び降り、理由は一言も残さず、ただ何かを納得した様子を見せて、またあの町へと泳いでいく。
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