歪み真珠

夏の嵐の歪み真珠のレビュー・感想・評価

夏の嵐(1954年製作の映画)
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このSENSOとANNAの感想を書き終えることなく年を越してしまいました。
手帳を捲ってみると11月のテルマ&ルイーズを最後に映画を一つも観ていない!それどころか映画を観るために時間をやりくりして映画館に足を運ぼうという気力すら失っていました。映画に限らず、本を手に取る回数もずいぶん減ってしまっていたのです。
今までは映画や本から摂取していた「ことば」を好きな男から摂っていたから、という言い訳を考えてみたり。けれどこういうものは離れると簡単に離れてしまえるから、ちょっと気合いを入れてもう一回取り組んでみる。

これを観たのは7/7。
以前ヴィスコンティの「山猫」を観たとき、映画のおかげで酔っ払ったような気分になるので、今度は物理的に酔っ払っておこう、昼から赤ワイン飲んで映画を見よう!と意気込んでいましたが。クソがつくほどあっつい夏に赤なんか飲んでられるか!と大暴れしながらロゼスパークリングを買って飲みました。いちおうイタリア産を選んで。

この映画はすべてがほんものだったから感想なんて書かなくてもいいような気がする。わたしがここで何を語ろうと映画をみればそれらすべてが「ほんとうのこと」ってたちどころにわかってしまうから。
二人が恋に落ちたことも、再会した部屋で揺れる夜風を孕んだカーテンも、彼女が(直接ではないにしても)彼を殺したことも。
ほんものを知らなくても、それを見た瞬間に、これはほんものなんだとわかってしまう感覚ってありますよね。まだまだ修行の足りない私には滅多におとずれない感覚なのだけど。はじめて「本物」を意識したのは茶道をしている父の手をみたときのように思う。他にもピカソの青の時代の絵とか、モンドリアンのブロードウェイ・ブギウギとか。ハンロの下着とか、ミキモトのパールとかにも本物を感じる。ここ最近で一番衝撃だった本物は、三島由紀夫の家。部屋で奥さまとお茶してたときの写真。部屋の内装が素晴らしくって、それ以来、読んでは途中で放り投げていた三島由紀夫の作品が読めるようになった。あの部屋を作り、そこで暮らしてる人間の書く作品はほんものなんだろうと思ったから。
こんな「本物」を見たときの感覚をこの作品からも感じる。

リヴィアが血の気のない薔薇のような表情で夜道を歩くシーン。
そして、物を与えることは、物を与えられた側にも負担が生じる仕組みについて。物理的なお返しの負担ではなくて。与えられた側がまだ若く、そして才能も持った、果てし無い未来をもった若い男性であったからこそ起こった悲劇だと思う。
ヴィスコンティ、見れば見るほどおそろしい映画をつくる人…
私は彼の作品で表現される風が何よりも好きです。
冒頭のオペラは「イル・トロヴァトーレ」
ヴィスコンティがヴェルディのオペラの世界を映画でやりたい、とつくったのがこの夏の嵐。
と言われてもヴェルディのオペラなんて観たことないし、そもそも人生でオペラを観たのなんて一回きりだからここに関しては何もわからない。でもすべてのシーンが絵から抜け出てきたみたいに緻密で、どのシーンもため息がでるほど美しい。

この映画を買ってまで観たのは日本で唯一「セクシー」という言葉を形容詞に持つことができる塩野七生さんが勧めていたから。
そういえば、お年始のNHKで彼女が(おそらく制服からみて)学習院の学生と対談する番組を発見した。惜しいことにたまたま気づき、途中から見たのだけれど。
この嫌煙の時代に、しかも天下の日本放送協会のインタビューに煙草を吸いながら答え、かつそれを公共の電波にのせることが許される人なんて塩野七生しかいないでしょう。淡路恵子さんは亡くなってしまったのだし。
同じ年始にブックオフで発掘した七生さんがマレーネ・ディートリヒについて書いた本の締めくくりが脳を痺れさせるほど魅力的だったからわたしも真似して書かせてもらいます。言ってみたいものね、こんなせりふを。

I wish love. This is Marlene Dietrich.
I wish love. This is Nanami Shiono.
I wish love. This is K.T.

私のFilmarks、映画の感想を書いているつもりがだんだんブログのような体をなしてきましたが、本年もよろしくお願いします。