夏の嵐の作品情報・感想・評価・動画配信

「夏の嵐」に投稿された感想・評価

leyla

leylaの感想・評価

3.8
戦時下のヴェネツィア、占領国オーストリアの将校フランツに恋をしてしまう伯爵夫人リヴィア。遊び人のしょうもない色男を好きになってしまい、貴族としてのプライドを捨てて破滅へと向かう。こんな男に惚れてバカだなぁと観ているこちらは思うのだが、恋は盲目。彼への想いは止まらない。

夫を捨てて逢いに来たリヴィアをフランツは一緒にいた娼婦に会わせて冷たくののしり、リヴィアの想いを打ち砕く。ショックを受けた彼女は憎しみの果てに……
イノセント同様、衝撃的なラスト。

今も昔も、人は愛の前ではこんなにも愚かになってしまうのものなのかと恐ろしくなった。愛憎が激しすぎるよ、ヴィスコンティ!
アリダ・ヴァリが激しい愛憎に身を震わす貴族女性を情熱的に演じている。
夏の嵐という邦題が原題よりいい!
KKMX

KKMXの感想・評価

4.4
ヴィスコンティの作品を初鑑賞。長尺ばっかの印象を持っていて避けていたのですが、2時間なので観てみました。いや〜、かなり面白かった!

ヴェネツィアの伯爵夫人と当時ヴェネツィアを支配していたオーストリアの将校との不倫の話。正直メロドラマってほとんど観ないため、単純に新鮮で面白かったです。伯爵夫人のリヴィアがタイプだったので、よりハマれました。

本作を観て、改めて恋の強大な魔力を思い知りました。その力に対抗できない者は、力によって押し流されますね。特に何者でもなく、繊細な人ほど濁流に飲まれる。本作を観て、改めて人は成熟する必要があり、内面の強さを高めていくことはもはや人類の義務だな、と感じました。
伯爵夫人リヴィアもオーストリア将校フランツも、何者でもなく繊細な心の持ち主。恋という官能の夏の嵐に巻き込まれてこの世から飛ばされてしまった弱く哀れな2人の物語だったと感じました。


1866年ヴェネツィア。伯爵夫人リヴィアはイタリア独立を目指すレジスタンスを支持し支援する熱い女性です。歳の離れた伯爵は彼女を理解せず、家庭内に居場所はありません。
そんな折、従兄弟のレジスタンス・ロベルトがオーストリア将校フランツと決闘騒ぎを起こします。リヴィアはその仲裁に入ったところ、フランツにトキメいてしまいました。
フランツは色男で、リヴィアとの再会を機にアプローチを仕掛け、リヴィアはまんまとフランツにハマって行きます。一方フランツは打算的で、リヴィアを利用していこうと画策していく…というストーリーでした。


伯爵夫人リヴィアは哀れですね。もともと激しい魂を持ち合わせていたのに、それを発揮できる環境がない。おそらくその思いをレジスタンス支援に捧げていたのでしょうが、彼女の資質ならば、従兄弟のロベルトと共に行動する方が似合ってます。しかし、伯爵夫人だからそれができない。おそらく無意識的にはもどかしさを感じていたでしょう。もし彼女が現代を生きていれば、きっと仕事や社会運動に身を投じて充実した生を生きることができたと思います。
どこにも居場所がなく、燃え盛る魂を注ぎ込む対象もない。伯爵夫人という縛りもあり、身動きも取れず歳ばかり重ねていく…こんな状況であれば、恋の誘惑に抗えるわけがないですよね。そして、リヴィアはこれまで恋を成すほどに成熟するチャンスもなかった。なんかリヴィアは可哀想です。

一方、リヴィアの想いを利用するクソ男フランツは、ピュアなリヴィアとは違い初めから打算的に振る舞ってました。カネだけでなく、伯爵夫人をコマしているという征服欲求も満たしていたのでしょう。
しかし、欲望のままに生きるにはこの男繊細すぎました。リヴィアのカネで除隊したフランツは自らの存在価値を見失ったのです。カネを巻き上げた後はリヴィアとの関係を完全に絶って、悠々自適に過ごすこともできたはず。でもフランツはそれが出来なかった。何も積み重ねてこなかった、単に制服を着ていただけで軍人だと錯覚していたフランツは、空っぽの自分と相対して、耐えることが出来なかったのです。フランツはリヴィアに手紙を出し、訪れて来たリヴィアの前で荒れるフランツはあまりにも惨めで哀れです。
フランツの実存的な虚無感は、『イージーライダー』のキャプテン・アメリカを連想しました。カネとドラッグと自由を得たキャプテン・アメリカは気ままな旅を続けることが出来たはずですが、空っぽの自分に耐えられずに自爆していきます。後半〜終盤のフランツの姿は、この哀れなライダーに重なりました。

リヴィアは恋の濁流に飲まれて流されました。フランツは恋に溺れることはなかったが、リヴィアを襲った恋の濁流に巻き込まれ、虚無を突きつけられてやはり流された。
愚かな2人の自業自得の物語と見ることもできるでしょうが、その背景に目を向けると、哀れさを禁じ得ませんでした。


物語以外の特徴として、とにかく絵面がゴージャス!1954年の作品とは思えない絢爛さです。カラーもくっきりしてましたし。さすが、お城で育った伯爵が撮ったガーエーです。

そしてムンムンに匂い立つ官能美。本作の原題は『官能』らしいですから、そりゃもうリヴィアの艶っぽさがタマリマセン!髪型フェチとしては、きちっとまとめた髪のときの凛とした気品香る美しさと、腰まで伸びた長い髪を下ろしたときの野生的な妖艶さの対比が最高でしたね!
リヴィアの情欲も切なくてグッときました。リヴィアが髪を一房切り取りフランツのロケットに忍ばせたシーンは、いかにも重たい女って感じで若干引きつつも、いいぞいいぞ!と思いました。リヴィアが現代日本に生きていたらaiko聴いてるね!絶対俺と気が合うわ(笑)
あと、リヴィアが若い女子じゃないのも良かったです。歳を重ねるといろいろと滲み出る魅力があるんですよね。彼女の場合は歳相応の経験を積めなかった脆弱な感じが切なさを醸し出していたと思えました。俺は薄幸フェチも入っているので、リヴィアは本当にど真ん中でしたね〜。


ホームグラウンドであるブルースタジオで『家族の肖像』やってるので、少しずつヴィスコンティ伯のガーエーも観ていきたいと思いました。長尺は観ないと思うけど。
傑作不倫ドラマ。アマプラの画質はもう一つだが、マスターがカナルなのでマシな方。スタンダードサイズ。アップが超少ないのと、繋ぎが的確。アリダ・ヴァリの眉間の皺、黒いベール姿。ファーリー・グレンジャーのクズっぷりが素敵。エキストラを大量に使った屋外モブシーンより、室内のドラマの方がエキサイティング。ヴェネツィアは殆どセットで、田舎に疎開するとこでチョイロケが入る。ゴンドラ乗ってみたい。中盤の屋敷はステキなロケーションだが、なぜか室内の方に魅力を感じた。ラスト、幻想を打ち砕く醜悪な展開にシビれる。結局、似たもの同士の二人だった...
HAY

HAYの感想・評価

3.5
一時的な快楽を求める自らの行為によって自尊心は失われていく
みんと

みんとの感想・評価

3.6

このレビューはネタバレを含みます

ヴェローナでのフランツの
「安楽に生きるんだ。だから君も一時の恋に金を出した。」
というセリフが印象的だったし、この映画の全てともいえると思った。

本当の卑怯者なら、最後までリヴィアを騙し続けたと思う。しかし、あのシーンで↑と言ったのは、お国のための士気と自衛や欲望の精神の狭間で彼の精神を追い詰めた時代背景が、彼に自身の業を自覚させ破滅させたからだろう。そんな彼の、もう死んでしまいたいという気持ちが伝わってきて、開始早々嫌いだったフランツだったが、最後のこのシーンだけは同情してしまった。
また、リヴィアを通して描かれた、刺激的でロマンチックな恋に盲目になるという女性の業も素晴らしかった。

ただのダメ男と純粋で盲目な女の不倫物語でなく、時代背景によってそれぞれが違った安楽を求めたことにより、自身の醜さに嫌気がさし、最後は両者ともに破滅してしまうという、哀しい物語だった。


「ベニスに死す」と同様、ベニスの美しい街並みや、オーストリアの白い軍服が印象的だった。

今年の誕生日は「山猫」の4k修復版を買ってみます!笑
西洋絵画のような映像が素晴らしかったです。

物語はイタリアに侵攻してきたオーストリア兵の将校と、イタリア人公爵夫人の不倫話ですが、こちらも男女関係の醜い部分をドロドロに描いてて、さすがのセンスでした。
#過ぎゆく夏の思い出映画🍉 でヴィスコンティ作品より📮。19世紀中期、イタリア統一紛争さなかのヴェネチアを舞台に同地を占領赴任中のオーストリアの若き将校(ファリー・グレンジャー)と裕福な伯爵夫人が禁断の恋に落ちるストーリー。

独立戦争の迫力ある戦争シーンに加え、貴族出身の監督ならではのオペラのような美しい映像に純愛と愛憎の入り交じる心理面の変化、描写に何度見ても圧倒される。主演のアリダ・ヴァリが若くて綺麗だが、このような女性に惚れこまれるとあとが大変だなぁ…と女性の愛の一途さゆえに妄念の怖ろしさを実感させられます😰。双葉十三郎氏の #愛をめぐる洋画ぼくの500本 紹介作。
製作費の大きさを高らかに謳い上げるハリウッド超大作とは違うベクトルでお金かかってる。お金かかってるという意識すらないかのように潤沢に、湯水のようにドバドバお金を使っているのが画面の端々から伝わってくる。ヴィスコンティは本物の貴族だ…。中世の豪華な装飾写本や、ゴッツォリの絵画を観るときのような、途方もない富を前にしたときの目眩を感じる。
終始画面が鮮やかで、激情的に転がっていく筋運びはオペラのよう。イタリアの街並みと華やかなドレスが美しい。
完全にキレてしまったアリダ・ヴァリの感情のでかさ。
sai

saiの感想・評価

3.6
“これがイタリア式戦闘か”
“私はいとこと同じ本当のイタリア人です”

流石、この手の上流階級を書かせたらヴィスコンティの右にでるものはいないですね!いや実際の貴族のことはよく知らないですが…(笑)
でも言動、仕草、セットなど、ヴィスコンティ流の美学を感じます。ああいうのは、ヴィスコンティが実際に見て育ってきた貴族の姿なんですかね。ヴィスコンティの描く上流階級の女性って、何かこう強いっていうか自分の価値観に忠実ですよね(笑)
しかしまあ、泥々になって会いに来たリヴィアにクララをぶつける残酷さ…見せつけるようにコルセット締めるシーンとか、侮辱するシーンとか酷すぎて何かもう笑っちゃいましたよ!フランツの笑い声、リヴィアの惨めな感じがまた強烈ですね…こんなに怒濤の笑い声と叫び声の入り交じる展開になるとは思いませんでした(笑)
ヴィスコンティ、上流階級と平民の思想の対比、立場の対比が好きですよね。
それと食事?食卓?のシーンとかもこだわりを感じます。
映画に裏切りや密告は存在しない。たとえ裏切りや密告が描かれようとも、裏切りに対しては裏切りが、密告に対しては密告が折り返されて、結局は肯定のみの世界が繰り広げられる。そうした二重性を確固たるものにするには、二重のものをさらに二重に縒り合わせることが必要になる。フランツがリヴィアのいとこを密告し、リヴィアを裏切ることに対してリヴィアがフランツを密告し、裏切るのだが、そもそもリヴィアはイタリアを勝利に導こうとするいとこのロベルトを救うためにフランツに近づいたのだから、フランツが処刑されるのは望まれたことだし、フランツはフランツで戦争に命を賭けたくないと言いながらも脱走兵としての悔恨を抱いている以上、そして他ならぬ自分自身のことで命を落とすことになるのだから、本懐を遂げたと言っても何ら支障はない。つまり、悲劇はそれを観る者が感じるカタルシス以上の浄化=肯定を映画全体に、ひいては世界全体に波及させるのだ。否定は一切そこでは役に立たない。リヴィアは浄化=肯定をひたすら盲信する純粋な愛によって、フランツは浄化=肯定を破滅していく偽りと卑しさによって成就させるのだ。二重性による縒り合わせに頼らない肯定もまた映画には存在する。それは情事の間にリヴィアとフランツが聞いていたあるかなきかの小さな音、そしてその音を後に思い出すだろう映画そのもののことだ。
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