吉里吉里

鉄道員(ぽっぽや)の吉里吉里のネタバレレビュー・内容・結末

鉄道員(ぽっぽや)(1999年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

 俗にいう「内地」での経済繁栄の恩恵が一向に齎されない北海道は道央を走る「幌舞 (ほろまい) 線」の終着駅・幌舞駅にも、経営効率化の波だけは押し寄せてくる。数カ月後に廃線を控えた幌舞駅の駅長を務める鉄道員 (ぽっぽや) 一筋の佐藤乙松 (高倉健) にも、期を一にして定年退職が迫っていた。勇退後のこと、自身の挙措進退を決められずにいるそんな最中の物語。生まれたばかりの一人娘を亡くした時も、妻が病臥し、やがて帰らぬ人になっても、毎日毎日駅頭に立ち続けてきた男が、過去を振り返り、現在を見つめなおし、やがて出した結論とは……。


 乙松の同僚であり、蒸気機関車時代の火夫、缶焚き (かまたき) として長く連れ添ってきた杉浦仙次 (小林稔侍) は、定年退職を期にJRのコネでトマムのリゾートホテルに横滑りが決まっていた。未だ退職後の進退を見極められずにいる乙松を説得するため、乙松の自宅 (兼幌舞駅) を尋ねるところから物語は始まる。

仏前で佐藤静江 (大竹しのぶ) に手を合わせ、しみじみとこう語りかける。

 げんこのかわりに旗を振り
 涙の代わりに笛吹き鳴らし
 わめく代わりに裏声絞る

 鉄道員である以上、鉄道員であることの宿命をわかってやってくれ、今までの全てのことを許してやってくれ、とでもいう風に仏前でこう諭す。そう、鉄道員である夫を持つことというのは、妻にとって家族にとっては不条理そのものなのかもしれない。静江も夫の仕事に敬意を払いつつ、それでも幾度も幾度も形に見える愛を求める。そのような心理描写が端的に示されている二つのシーン。自身が妊娠したことを告げた時、「お前偉いぞって言え!」と乙松に求めたあのシーン。からからと笑いながらもしずしずと泣いているようにも見える静枝。あるいは、高齢初産婦であるにも関わらず、静江がやっと授かった子どもをわずか数ヶ月で亡くしてしまい、亡骸と一緒に幌舞駅に着いた時も「子どもが亡くなった時でも、旗振って迎えるのね」と乙松を強く叱責したシーン。

 ぽっぽや稼業はこうすることでしか、「げんこのかわりに…」でしか愛を示せない。本来なら家族と過ごすべき今この瞬間に、乙松はそれでも駅頭で指差喚呼 (しさかんこ) をし、列車を見送る。このシーンも何度も何度も挿入される。見るたびに胸が締め付けられる。

「側灯、滅!信号、ヨシ!後方、ヨシ!」と裏声を絞り、電車を見送ったあと、決まって乙松の表情は、ばつが悪そうに歪むのである。而して私自身には「ヨシ!」といえるであろうか、と自問している声があのシーンから聞こえてくる。

 鉄道員であることに自負は感じている。それでも妻や娘の身になってみれば、因果な稼業でもあったのが鉄道員。乙松は自分は家族に何もしてやれなかった、と思いを巡らせる。そんななか、一人の少女が駅舎に現れる。やがて少女は亡くなった自分の娘・雪子 (広末涼子) ではないか、と思い至る。家族との大事な場面に何一つ立ち会えずじまいだったのに、死んだ娘がこうして現れて、鉄道好きな娘として育ってくれて今ここにいる。「(生後すぐに亡くなり)何一つ親孝行できなくてごめんね」、とけなげに語りかける。(この台詞は本当に号泣だった)この少女との邂逅を通して、物語の最期に乙松はある決断を下す。寒風吹き荒ぶ駅頭にて大の字になり絶命する。果てるのである。この最期を、率直に言ってしまえば、「健さん、あんな死に方ぁないよ。かっこ良すぎるよ」と思う自分がいなくはない。いや、もしかしたら、最初から死ぬ気でいたのかもしれない。だからこそ、娘に会えたのかもしれないな、とも思ったり。

 鉄道員に限らず自らを犠牲にし、家族を顧みず仕事に精を出してきたという人生を送ってきた人々には、この映画には妻への「告解」にも似た映画に映るかもしれない。昭和の「男子たるもの」的な、いびつな仕事に対するあり方に赦しを得んがために、夫婦で映画館に出向き、「鉄道員」という物語に仮託した側面があるとも思う。それでも、筆者自身はその仕事観に翻弄されてきた家族としていう。物語は物語であり、この鉄道員という (x) にどんな職業でも代入できるほど、普遍的な職業像ではない。やはり自分のことばで妻に赦しを乞うべきである、と。

 本作の見どころは、まだまだある。乙松の現在と過去をシームレスに往還し、折々にエピソードが挟まれるが、その小品一つ一つにも胸を打たれること請け合いだ。昭和というのは、実に激動の時代であったとしみじみ感じる。人の命運はかくも時代に翻弄され、人の生命はかくも脆いものか、と。昭和という時代を並走してきた人たちはきっと涙を禁じ得ないと思う。

 俗に「親に敷かれたレールを走るだけが人生ではない」ということばがある。そのような生き方を賢しらに称揚する人間たちもいるが、親に敷かれたレールを「守るべきもの」として腹を括 (くく) る人、その軌道がそもそも敷かれなかった人、心ならずも軌道を外れてしまった人。そんな人に手を差し伸べる大人たちが、健さんを取り巻く時代には数多くいたのだと思う。

 健さんのような人が駅頭に立っていたからこそ、終着駅であるはずの幌舞駅から、レールはまた敷かれていく。幌舞駅という果ては、果てなようでいて、果てがないのである。期間工の炭鉱夫であった吉岡肇 (志村けん) が不運にも幌舞炭鉱の事故に巻き込まれ、天涯孤独となった息子を地域で引き取り、この「果て」で育て、ついには幌舞からイタリアに飛翔する青年となった。いみじくも、彼の出店しようとする店の名前はイタリア語で「機関車」の意味を持つ「locomotiva」。やはり、果てなようでいて、果てがないのである。

 高倉健を代表する作品であり、名にし負う名作と謳いあげられる本作。本当に観れてよかった。号泣だった。
吉里吉里

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