クロフネ

愛の予感のクロフネのレビュー・感想・評価

愛の予感(2007年製作の映画)
2.7
加害者の母にしろ被害者の父にしろ、こんなに饒舌な事件の当事者がいるのだろうかと否定的な気分で見ていたところ、そのインタビューのシークエンス以降は、主人公の2人はおろか画面に映るすべての人物にいたるまで一切のセリフがなくなってしまいました。次に声が聞かれるのは、ラスト直前までありません。
娘を亡くし生きる意味を失った男は、記者の仕事を辞して北海道の製鉄所で働き始めます。そして、住み込みの宿で調理の仕事をいている女性を目にします。彼女は娘を殺した少女の母親でした。
映画は、一人娘を殺された男の行動を、逐一繰り返し繰り返し描いていきます。車のハンドルを握り製鉄所に行き、働き、宿舎に帰り風呂に入って加害者の母が作っためしを食う。その行為を何度もなんども繰り返して描きます。このミニマルな映像表現こそが、小林政広監督のやりたかったことであり、スイスの映画祭で評価された点なのだと思います。例えるならスティーブ・ライヒの作る音楽のように、音の連なりがかすかに変化しながら繰り返され、最後にはまったく異なる表情を見せるような。また避けがたい退屈を覚えるという点では、シャンタル・アケルマン監督の作品を想起させます。
その映像手法が成功しているのかどうかは意見の分かれるところでしょう。男と女の心は微妙に変化をし、ひとつの結末をむかえます。ただほんの数時間まえに見たはずのその結末が、なぜかいまの私にはまったく思い出されません。「愛の予感」はそこに映っていたのでしょうか。

男の部屋のテーブルにあった本のひとつは、ソルジェニツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」だそうです。
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