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モスクワは涙を信じないの文字のレビュー・感想・評価

モスクワは涙を信じない(1979年製作の映画)
3.5
“Москва слезам не верит”まずタイトルが素敵。ようやく見ることができた。ちょうどモスクワ五輪と同じ年に公開され、9000万人の観客を動員したらしい。とりあえず靴は綺麗にしておこう。冒頭のフィルムはややケルビン温度が高めだった。
 トヴェルスカヤ通りを歩く。フルシチョフ期からブレジネフ期へ。ダーチャに行きたくなる映画だった。アネクドートも風刺が利いていてとても面白かったが、フェミニズムの観点から見るとおそらく承服できまい。実にグロテスクだ。もっともウラジーミル・メニショフがそこまで計算していた、社会風刺として捉えることももちろん可能ではあるが。別にメニショフを擁護するわけでもないが、描かれていた情景が現実的なものであるがゆえに現実の反映であると言える。その認識の転換、つまり反映の現実を求めていたのだろうか。なぜか急に小津の『麥秋』を思い出した。描き方、志向性こそ大きく異なるが、女性の眼差しを投影し、作品の中心に据えているところに親和性を感じる。
 Людмила Улицкаяの<Сквозная линия>を思い出した。
 スターリン時代のことを思うとカーチャらが身分を偽ることができていたのはやはり徐々に雪が融けてきていたのだろうか。また当時エリート階級と解釈されていた職業が面白い。それにしても、本当に、溺れているわけではないが誰一人として救われない。救われないのだが、審級者は存在する。充足理由律がある。それが悲しいのだが。一見すると田舎からモスクワへ出てきた一人の女性のサクセスストーリーのようにも見えなくはないが、それではテレビ局と同じ間違いを犯してしまうだろう。しかしやはり三人とも逞しい。辛苦はもちろんつきまとうだろう、完全な平等というわけではないだろうが、のべつ支障をきたしているというわけでもないし、時折やってくる非日常と非日常の間の小康を生きている。しかしもはやディオクレティアヌスは現れないだろう。
 あとはやっぱりАлександра。Александраに始まり、Александраに終わる。どちらも素晴らしい。コムナルカをでたのはいつなのだろう。どこか哀感と孤独感が漂っていたようにも見える。


クリームに何入れるんだろ?
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