ルサチマ

こおろぎのルサチマのレビュー・感想・評価

こおろぎ(2006年製作の映画)
5.0
4回目 2019年1月7日 DVD

記憶違いかもしれないが、劇場公開されていた時には見当たらなかったカットがあって、異なる編集バージョンな気がする。
廣瀬純の解説が素晴らしい。

3回目 2019年12月20日 @K's cinema

この映画でどんぐりを投げる動作がやたらと目につく。
植木屋さんとの会話の後、家の外からベランダに座る盲目の山崎努を見上げて、悪戯に彼に向かって鈴木京香がどんぐりを投げる。彼は目が見えないかわりにどこからか投げられたどんぐりの音を頼りに気配を感じて立ち上がる。
また鈴木京香が伊豆へ来る前に関係があったとされる(明確に誰かは分からない)相手との電話でのやりとりで、地面に向かってどんぐりを投げつける動作が行われる。
山崎努が消えて行われたパーティーの直後にバーで出会った男女は鈴木京香の寝室に向かってどんぐりを投げつけて、彼女を起こす。
ラストでは、新たにやってきた山崎努がどんぐりを何処かへ投げた動作に反応してカメラが近づく運動をする。
この投げる動作が投げる人から投げられる人(場所)へカメラが移行する空間の広がりだとしたら、ラストで投げる人(山崎努)からカメラが投げる人(山崎努)へと向かうのは明らかな変化であり、空間が狭くなるという真逆の効果が発動している。
空間を広げることのできるどんぐりは、行為と目的が一致しているのに対し、ラストで山崎努が投げるどんぐりには一切の目的を見出すことができない。
動物的な本能のまま生きる山崎努が洞窟へ出向くことで人間としての機能を持つようになり、ラストでは全てを超越したかのような存在へと変化するとしたら、彼は本能や理性からも解放されてこのどんぐりを投げる動作を獲得しているのだろうか。

2回目 2019年12月16日 @K's cinema

ファーストカットから出現する(望遠鏡から見ているかのような)丸型に切り取られた伊豆の景色はロングショットであるものの、周りが黒く塗りつぶされていて全景を捕らえることはできない。
この丸型は度々映画の中で現れるが、この丸の効果が明らかに記されるのは鈴木京香と山崎努の暮らす部屋に飾られた時計を丸が捉えるシーンである。
そもそもこの映画の舞台は時間の断絶に満ちた伊豆という土地。海に沈められたかつての遺産が洞窟に戻る時間の断絶と接続の直後にまた丸は出現する。
そしてこの映画を最も分からなくする要因の一つである時系列を操作した編集。
例えば山崎努が亡くなったあとのバーにおいて「車出してもらったろ?マッチも貸してもらったろ?」という会話があるにも関わらず、実際に鈴木京香が洞窟の中へ車を走らせ、マッチで火をつけるのはクライマックスである「一年後」という文字が表示されてからのこと。映画そのものが孕んでいる編集による時間の断絶と接続を空洞そのものである丸の出現が表している。
『EUREKA』のスローモーションが意味する時間を操作する編集効果が『こおろぎ』においては丸によって引き継がれているかのようだ。
映画の中で表示される直接的な時間表現である「一年後」は確かに時間の経過を示すが、同時に本当に「一年後」かどうかを確認する手段を観客は何も持たない。
『冷たい血』で主人公の元刑事がジャンプしながら「ジャンプ」と言葉を発する時のような映像と言葉が一致する強度が、この「一年後」には一切感じられない。
丸こそが時間の断絶と接続を示すかのような役割を果たしているとしたら何故この一年後を示す場面で丸が出現しないのか?
鈴木京香本人による「目覚めると彼(山崎努)は死んでいた」という肉声のナレーションもこの「一年後」にはなく、何者かによるナレーションで「薫はこの男しかいない」と語られるように、この「一年後」で描かれる世界は常に映像と声(音声)を繋ぐ根拠が欠け続けている。
寧ろ本当の実生活での時間の経過とはかけ離れたフィクションの境地ともいうべきパラレルワールドのような世界に見えて仕方がない。

1回目 2019年12月7日 @K's cinema

この映画の山崎努は人間であることから解き放たれ生命体として世界に向かって吐き続ける。
目も見えず口もきけない男として、山崎は彼を飼う鈴木京香を肌で感じ、匂いを嗅ぎ、指を舐める行為を繰り返す。鈴木京香は逆に自らの肉体を捧げ、彼を家の中に閉じ込め、サングラスをかけ、靴を隠すことで山崎から肉体としての感覚を次々と自分だけのものへとする。彼女が発する言葉は別に山崎に届けることが目的とはされず、言葉なんてものは肉体を捧げる行為に勝ることはない。
だが、山崎努はあくまで吐き出す人物であり、鈴木から与えられる肉体も吸っては吐き出してしまう。そんな彼の態度が許せない鈴木は「食べなさいよ」と初めて言葉による命令(意味と行動が一致する)によって彼を縛りつけようと試みるが、失敗。そして彼はベランダへ出向き世界に対して唾を吐き続け、ついにサングラスも外した状態で安良里の隠れキリシタンの洞窟へと誘われる。
この洞窟はまさに偽宣教師の作り上げた神にまつわる歴史がある矛盾に満ちた「空洞の」場所であり、この洞窟へ誘われる「空洞のような眼をした」山崎は『地獄の黙示録』のカーツ大佐のように洞窟=自分自身と対峙してしまう。
彼が吐き続けた対象の世界は常に彼に対して距離を取り続け、近寄る事を許さなかったが、その世界へ自ら出向いた先で行き着く場所はそのまま空洞の洞窟即ち自分自身へと返って来たように見える。
ここで彼が世界の何を発見してしまったのかは闇のみが写され、言葉も存在せず、闇以外には定かにはならない。だが、そこからの彼の行動は赤ん坊のようにただの生命体と呼ぶにはあまりにも人間らしい。
かけ続けた唾が自分に返り、洞窟から離れ滝のそばの橋の上で蹲る山崎は鈴木京香に無理矢理車へ乗せられ、音楽の鳴り響く酒場へと連れられ、ここで更に聴覚と席を外れた鈴木京香によって身体の自由を全て剥奪されるのだが、そんな鈴木京香に対して怒りのような態度を初めて見せる。
ただの生命体としての機能を失った代わりに人間らしさの芽生えた?山崎は夜の月に誘われ、海へと向かい、死ぬ。
彼の死後、空洞だった洞窟に海の底から引き上げられた物体が漸く洞窟へと献上され、伝説だった隠れキリシタンの歴史が事実かのように洞窟の意味と存在を一致させる。そしてその一致は空洞そのものだった山崎が象徴の存在としても鈴木京香から消えてしまうことになる。
一年後、同じ場所で鈴木京香は山崎努に出会う。彼は「こんにちは」という新参者からの言葉に反応しない代わりにまたかつての山崎と同じようにフレームの外の世界へ向かって唾を吐くが、ここで吐かれた対象のカメラは山崎にカットを切り替えることなく近寄る(近寄ることのなかった世界が彼に引き寄せられる)ことで、山崎は全てを超越したかのような神の化身のように見えたが、実際のところ全部違う気もする。
ただこの映画は間違いなく傑作だし、上映後青山真治に直接「素晴らしかったです」と伝えられて良かった。


現役の日本人監督で青山真治より新作が楽しみな監督はいない。噂だけ耳にして封印された今作が観れるだけで生きていて良かった。早く新作見せてください。
ルサチマ

ルサチマ