harunoma

こおろぎのharunomaのレビュー・感想・評価

こおろぎ(2006年製作の映画)
5.0

2006年 東京国際映画祭 35mm
他、特集上映で東京日仏学院で二回、計三回観たがもう憶えていない。
細野的なすっとぼけたポップな音楽に、船に揺られるカメラが望遠鏡のようなアイリス・インで現れ、揺れる波の映像がみえる。スタンダードながら、たむらまさきのこの時期のキレッキレのショットが、全映画を貫く。
夜の海辺で盲目の山崎努が光りながら神になっていくのを、砂浜に横たわる安藤政信が見ている。
タングステンの頭上のライトひとつに、小さな食卓で、ドレスを着た鈴木京香と、山崎努が、手も口もべちゃべちゃによごしながら、肉を喰らいつくショット/リヴァースショットの強烈なイメージ(10年後にいくつかの記憶を頼り、肉を食いながらの切り返しを使わせてもらった、もちろん別な形で)。傑作であった。ただ山の道や海辺を歩いたり、振り向いたり、見上げたり、立ち止まるだけで、あるいは牧歌的な何者でもない何か訳ありな共同体が、こぞって港へ走り出すだけで、ルノワール的な多幸感の野遊びを生んでいる。隠れキリシタンの歴史の、訳のわからない洞窟の不気味さなどもおもしろい。山崎努は言葉なしに世界に動き出す樹木のようだ。

本作が公開されていれば、青山は女優を撮れる監督として、今年おそらく『マチネの終わりに』を撮っていただろうし、ほぼテレビ主導の日本映画産業の怠惰と愚鈍なセンスから蹂躙されてきた、映画女優という職業の権利のための闘争が必要だったように、鈴木京香は、今よりもまともにこの国の映画界、及び国際映画に悠々と出演できるくらいのことにはなっていただろう(なぜ木村拓哉とテレビドラマで共演するなどという不遇な扱いを受けているのか)。だが、ここまで呪われた映画を、公開なしにDVDのみで今更販売するなど、一周回って、恥辱以外の何物でもない。(限定公開されているらしい、K's cinemaで公開しても意味はないね)そして青山真治がここまで10代20代のシネフィルや映画人に嫌われていることの事実もあり、青山のファンとしては(というよりも映画館で『ユリイカ』のショットを観れば誰もが世界最高の映画監督の一人だと認めるだろうが、瞳を動かしたことのない口だけの阿呆な人間たちは露悪とアートを映画だと、それがコミュニケーションにとって安全なのだと自己教育をする)、いたたまれず、もはや青山も彼の映画も埋葬するしかなく、彼のショット(たむらさんのショット)を受け継ぐ心意気を持った若手もいないのならば、その葬送も青山自身がしなくてはならない悲劇的な状況に陥っているこの国は最早滅んだほうがいいだろう、というのは嘘だが、それにしても、山崎努と鈴木京香、山崎努と鈴木京香、青山真治とたむらまさき。最高だぜ
harunoma

harunoma