ダイセロス森本

ゼイリブのダイセロス森本のレビュー・感想・評価

ゼイリブ(1988年製作の映画)
4.1
原作との比較

映画自体、原作となる短編小説がある。「Eight O'clock in the Morning」(Ray Nelson著)は約5ページほどの小説で、タイトルを直訳すると「朝8時」。キーワードとなる朝8時が小説の中でのみ展開、映画には一切影響を与えていないことを説明していく。ストーリーの展開はこうだ。洗脳、あるいは催眠術から解けた主人公Nadaは、街に人ではない何かが人々の間で生活している様子を見る。(映画はサングラスをすることでこのエイリアンたちを見るように変更)エイリアンたちのことは「魅力のある者」を意味するFascinatorと呼ばれ、彼らの作る商品広告や言葉に魅力、あるいは自然に従いたいという欲を掻き立てられた人間たちはそれに従い、消費し、魅力者たちの餌食となっていく。魅力者たちが発する裏のメッセージは映画と同じで、「働け」「消費しろ」「政府に従え」といった労働者たちの独立を制するような文句。主人公はこの裏側のメッセージを知りながらも、商品を綺麗に見せる広告を見ては消費したいという欲に抗えそうにない自分を見て揺れ動いている。原作では揺れ動くNadaだが、映画では信念を曲げず「彼らは間違えている」と猛進するキャラクターに変更されている。これについては同時代の政権の隠喩と取れるので、後に纏める。催眠から解けた彼が説得をしようとする相手は彼女なのだが、彼女にはそれが伝わらず、言い争いを聞きつけた隣人がやってくる。この隣人は魅力者であった。Nadaは隣人を撃ち殺してしまうが、彼女は未だ隣人をエイリアンだと信じない。隣人宅へ向かうと、そこには人間の骨や半分食べられた体が見つかる。魅力者たちの目的は人間の捕食であったことがここで判明する。同時期に、電話で催眠を操る人から、「君は明日朝8時に心臓発作で死ぬ」と言われた主人公。躍起になった主人公はこの世界を皆に伝える為、テレビ局に潜入しアナウンサーを撃ち殺す。死んでエイリアンの形をしたアナウンサーをテレビに映したまま、Nadaはエイリアンの声真似をして「我々を殺せ」と放送させる。その後、エイリアンの姿を見た人々が戦争を起こし始めるが、主人公は電話の通り、朝8時に死んでしまう。

原作の結末と映画の結末

原作の結末は上記の通り、疑問が残ったままである。主人公は催眠を解かれて真実を伝えたと行動は示しているものの、結末は催眠状態から覚めていないことを示唆する。Nadaは魅惑者の命令に従い死んでしまう。映画の結末は原作よりサッパリとしていて、行動を起こし世界を救った後、銃で撃たれて死んでいく。正義のヒーローのような終わり方は、実に映画らしく脚本化されたと言える。

映画監督ジョン・カーペンターとその作風

本作を監督したJ・カーペンターをおさらいしておくと、映画の結末や主人公Nadaの描き方への疑問が少し晴れるかもしれない。監督の代表作となる『遊星からの物体X』、『ゴースト・オブ・マーズ』などは、グロテスク描写を多く含んでいる作品であり、本作でも原作に忠実な「人を食べるエイリアン」を描くことは容易に出来た筈である。これを除いた理由は後に考えてみることにする。監督が一貫して映画の主人公に抜擢しているキャラクター、作風がある。『ニューヨーク1997』や『ゴーストハンターズ』、『エスケープ・フロム・L.A.』などのプロットは、どこからかやってきたアウトローが争いに巻き込まれるといった形式があり、西部劇風のヒーローを起用することを好んでいるのではないかと考えられる。本作もそのプロットが健在で、フラッとロサンゼルスにやってきた主人公が事件に巻き込まれ、一人で戦うことになるという形式が見られる。

80年代政策を皮肉るために

原作では主人公はアパートに住んでいる。しかし映画ではホームレスという立ち位置。これについても、当時アメリカ国民が陥っていた経済的困窮を表していると捉えて良いはずだ。レーガン政権が始まり終焉を迎えるまでの8年間ほどのアメリカは、福祉を嫌い、富裕層に減税を行うといった、優位な立場へのもてなしを尊重するスタイルを取ることになった。右傾化したアメリカが齎したのは、1950年代の反コミュニストのような錆びついたアメリカだった。レーガンは当時、自信を売り出す際にカウボーイを連想させるような人物像を演じていた。カウボーイハット、ジーンズ、デニムシャツを身につけ、「献身的で道徳心を持った普通の人」が国家政策を行うと主張していたわけである。本作では同じように西部劇のカウボーイというイメージを使用しながら、レーガンとは正反対のキャラクターを主人公とした。また、広告を「消費しろ」というシグナルとして(サブリミナル効果)描くのは原作にも通ずる手法だが、これには時代背景も伴う。80年代のアメリカは貧しい人々がますます困窮していく一方で、テレビの広告技術は進歩、人々に魅力的な商品を届けるためコマーシャルが一段と増えた時期に当たるからだ。

エイリアンを食人鬼としなかった理由

エイリアンが人を食べてしまうという作風にするならば準備周到、と言える監督だったが、それを敢えて「スーツを着た普通の人々」としたのか。単なるホラー映画であれば前者でよかった映画だが、当時監督が放った言葉はこうだった。「消費者でいるのは得だと言い聞かされてきた。アメリカはもう生み出そうとしない。食べ尽くすだけの世界に腹が立った。知的犯行だ。」エイリアンは人々から搾取して生きている。人々が知らぬ間に食い尽くされ、資源を吸い取られたことに気付いた頃にはエイリアンたちは次の世界へ行っている。こういった消費社会に気付くよう促す作品として、監督はホラー要素を敢えて削ったと言える。

感想

メガネを「かける」ことで世界の真実を知るという描写は、色眼鏡を装着してみる世界とも捉えられる。これは興味深くて、人々が無視することをメガネを通して見ることで気付くというのは、アイテムを重要視する映画としての成功例だと思う。また、10分ほどの殴り合いは理解できなかったが、とある評論家が「これは干渉と解放の痛みを伴ったシーンである」と言うので、そういうことにしておく。映画のヒロインは「受益者」として、最後に主人公を裏切りという形で引っ叩く。「気付いた者」「気付かされた者」、そして「気付いているが恩恵を受けている者」を一目で分かるように構成したことに感動した。エイリアンであるThey がなかなかの怖さで夢に出てきそうだったし、ホラーオタクとしても楽しめるクリーチャーの完成度が嬉しい。陰謀論者の言っていることには情報源が怪しいものばかりだが、彼らにはそれは「見えて」いて、私たちに伝えようとしているのならば、Nadaのように私たちにもそれを可視化してくれる世界をいつか作ってくれるのだろうか、なんて考えていた。

本気でハマってしまい長文で纏めたが、どれくらい面白かったかというとOBEYポスターを購入するくらいである。多分あとTシャツ買う。