YasujiOshiba

サバイバル・オブ・ザ・デッドのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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アマプラ。やっぱりロメロのゾンビはよい。遺作となった今回はじつに哲学的で考えさせられる。

テーマは「死者のサバイバル」。ゾンビが蘇った死者であるならば、そのサバイブとはどいうことなのか。

そもそも人は死ぬ。生まれたときから「死ぬ」(morire)ことだけは決まっている。だから人とは「いつか死ぬもの」(mortal) だ。つまり、ぼくらは神とは違ってこと。だって、神は不死であり、「死なないもの」(immortale)なのだから。

ゾンビはどうか。ゾンビは既に死んでいる。死んでいるから「死なないもの」(immortale)ではない。だからといってこれから死ぬわけでもない。神のような「いつか死ぬもの」(mortale)でもない。

ゾンビとは、生きているわけでもなく、死んでいるわけでもない。死の淵に引き摺り込まれながら、死んでしまうことは許されない。生きていたときの記憶を、その朽ち果ててゆく身体にとどめおきながら、ただ生者を貪りたいという衝動に突き動かされ、起き上がり、彷徨い、むしゃぶりつく存在だ。

ロメロの遺作は、そんなゾンビに対するふたつの態度が登場する。ひとつは、ゾンビをそのままゾンビとしてサバイブさせようとするもの。もうひとつは、ゾンビをふたたび死者の眠りにつかせるというもの。

ゾンビをサバイブさせると人が食われる危険がある。その危険をどうやって乗り越えるかが問題となる。一方、ゾンビを眠らせるのはその頭部を破壊すればよい。ゾンビ映画の定番だ。

しかしここでロメロは、ゾンビの定番がそれほど簡単ではないぞというリアリズムを導入する。つまり、人間の頭部を打ち砕くのがたやすくはない。まして、愛しい人の頭を撃ち抜くような試練を、いったい誰が乗り越えられるのか。

ゾンビの世界に投げ出された者たちは、こうして分かれ道にさしかかることになる。どちらも譲ることはない。ゾンビはそのままにしておくべきだ。いやちがう、頭を撃ち抜くべきだ。

こうして小さな島には、ふたつの派閥がうまれる。いやふたつの部族といった方がよいかもしれない。そもそも同じ場所にやってきて、同じ幸福を求めた仲間だった。しかし今ゾンビをどう扱うかで、激しく憎しみ合う。どちらが正しいかわからない。ただ、どちらも自分が正しいと信じ、相手にも同じように信じさせようとする。

その憎しみは、そのまま消し難い刻印としてその身体に刻み込まれ、やがてゾンビとなってもなお、憎しみの身振りを続けることになるのか。あるいはもしかすると、憎しみに見えたものは、ただ自分たちの幸福を求めるあまりの必死の身振りにすぎなかったのだろうか。

それが、震えるように美しいラストシーンが、ぼくらに問いかけてくるものなのかもしれない。
YasujiOshiba

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