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毒薬と老嬢のkyoyababaのレビュー・感想・評価

毒薬と老嬢(1944年製作の映画)
5.0
いわゆる「老婆モノ」の中でも異色の傑作であり、『スミス都へ行く』『或る夜の出来事』『素晴らしき哉、人生!』等の傑作を生み出したフランク・キャプラ監督の才能が遺憾なく発揮されている。

ドストエフスキー『罪と罰』や芥川龍之介『羅生門』の老婆とは対称的に、この映画の老婆たちは疎外・孤立、動物化はしておらず、唯一の共通項は《狂った常識》が内在化し、完全に普遍を超越した思想に依拠しているといったところだろう。

シリアルキラーの老婆たちは、宗教的信念と博愛主義の精神に基づき連続殺人を繰り返すが、ケイリー・グラントがドタバタを見せるコメディ映画として完全に成立しているのは、死体はおろか、血もまったく登場しない、演劇的台詞回しによる《狂い》を大変秀逸に描いているからであろう。

対比的な存在として登場したと見える甥のジョナサンは、こちらは純粋な──ただの──シリアル・キラーだが、物語後半では老婆たちと──ただの──「たくさん殺した方が勝ち」という意味不明な欲望の衝動に敗北している点で、いずれも『罪と罰』や『羅生門』のそれとは異なった「人間的-老婆」と言えるだろう。

さらに、ケイリー・グラント自身が演劇評論家役としてメタ的に演劇を語るシーンは完全にコメディであり、画面に視聴者が存在していることを前提としたエンターテインメントとして昇華している(もとのブロードウェイでも、観客の笑いを攫ったことだろう)。

老婆たちは裕福で幸福であり、キリスト教的ドグマに囚われている──ような表出が自然発生的に起きている──が、実際は高級住宅街での平和な生活よりも、精神障害者(ケイリー・グラント演じる演劇評論家の弟)との素朴で日常的な人生を望んでいる、というラストシーンの描写において、「この老婆たちは(ポストモダン的な意味での)パラノイアではない」ことが印象づけられる。

惜しむらくは、原題『Arsenic and Old Lace』に従い、「砒素」を『毒薬』と訳しているが(これはケッセルリングの戯曲がすでにそうだ)、『毒薬』であることはこの映画の必然性にほとんど関与しない(コメディリリーフとして数回弄られはするが)。老婆たちの「超越者的立ち振る舞い──彼女たちは、自らの殺人が善であると心から信じており、そして(おそらく)それは実際にそうなのだ──」には如何に名付けらるるが適切であろうか?
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