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マッドマックスのEIJIのレビュー・感想・評価

マッドマックス(1979年製作の映画)
3.2
【批評──マッドマックスから見るワークライフバランス】

暴走族が幅を利かせはじめた近未来。ことの発端が何なのかは一切示されないが、法も機能しなくなり出した世界で警察官を勤めるにはあまりに危険だ。それこそ、イカれた奴以外やっていられない。

〈マックスと暴走族の共通点と差異〉

「おれは走ることが楽しくなってきた。バッチを外せば奴らと変わらない」

走ることを生き甲斐にすると言う点ではマックスも暴走族も同じだ。ハンドルを握りエンジンを蒸すことに興奮を覚える。元来、生物として強さを表す“音”と“速さ”は遺伝で決まっていた。しかし、人類は乗り物を発明し、身体を拡張させてきた。どれだけヒョロヒョロでも革ジャンに身を包み、マシーンに乗れば立派なバイソンとなることができる。

マックスは根源的欲求に対して、キンシップ(家族を守ること)という別の欲求で打ち勝つ。妻と子を手にしたマックスにとって速さというシグナリングは遺伝子を残すのに不必要になっていたのだ。

〈マッドマックスが紛れもない近未来である理由〉

警察官であろうと、暴走族であろうと元は人間である以上、欲求の暴走は避けられない。両者を隔てるのは目的の所在にある。

暴走族は走ることを目的としている。遊びのように、「〜の為に」という別の目標があるのではなく、走ることそのものを楽しみ、それが彼らにとって生きることなのだ。

一方で、警察は走ることを悪人の逮捕に使っている。究極的には走る必要はないが、逮捕の為に必要だから許されているのだ。さすれば、仕事は限定的に許可された権限を行使して社会に貢献することとも言えるだろう。

昔は、仕事と生活が地続きだった。働くことは人生そのものであり、現代のように9時から17に“だけ”仕事モードとなり、それ以外は別人格として過ごすことなどなかったのである。

こうした切り替えが、人間にとって予想以上の負荷となっている。仕事を生き甲斐としている人間はオフになると欲求を抑えなければならない。仕事という限定的な時間に許されていたことをプライベートでもやりたくなり、法を犯すことも珍しくなくなった。

一方で、仕事にやり甲斐を感じない人間は人生と仕事を結びつけられず、1日8時間以上(睡眠時間を含めて17時間以上)、自分の人生を生きられない。

このジレンマに対する答えは、マックスのように家族をもうけることだ(あるいは、大切にしたい何かの存在)。

暴走族のごとく、仕事と生きることを一体化させるのは難しく、現代においてその大半は法に触れる。従って、プライベートでは欲求のスイッチを切れるストッパー的な存在が必要なのである。

昨今では、ワークライフバランスという虚構が綻びはじめ、YouTuberをはじめとしたワーク・アズ・ライフの人々が台頭し、憧れを抱く人々が増えつつある。全人類が人生をコンテンツ化──そして求められるのは良くも悪くも正直な人間性──していく限り、マッドマックスは紛れもない近未来なのだ。
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