harunoma

ゴースト・オブ・マーズのharunomaのレビュー・感想・評価

ゴースト・オブ・マーズ(2001年製作の映画)
4.5
GHOSTSHOTS
NYC Ghosts & Flowers

Tide's up. Time to stay alive.
Let's just kick some ass.

これらの異星人のコスチューム・プレイというかメイクは、ほとんどマッド・マックスと同じではないか、しかしどうやら、商業的な普遍性はなく、B級として忘れられる。
昔、渋谷のシネマアンジェリカ!のオールナイト(シブヤ・シネマ・ソサエティみたいです)で二度目の上映を観たのが最後だが、なぜゴースト・オブ・マーズ絶叫上映が催されないのか、大阪万博25よりも謎だ。

マッド・マックス教授のように、あくまでもキャラクターをネタとして消費できる安心感など微塵もないためにそうなのだろうが、地球外生命体による古代火星における怨霊が人間に乗り移りゾンビと化すという錯綜した設定は、そのままもう一度やぶれかぶれの作戦プランBはプランAと同じだったり、せっかく列車で逃げたのに、地獄の地帯シャイニング・キャニオンへ舞い戻る決断すらして、仲間のほぼすべてを死に追いやるナターシャ・ヘンストリッジスレンダーブロンド美巨乳副隊長のでたらめぶりもある。芋時代のジェイソン・ステイサムとの密室の逢瀬の騙しキスは、オチ無く、そのまま次の銃声に掻き消える脚本は、どこまでも痛快にでたらめである。
彼らは化け物なのか、ゾンビなのか、どうやら人間の意思を操っているらしいが、アクションの戦闘・素晴らしい群像の乱闘シーンになると、明らかに知性的な段取りの動きが目につき、アクションエキストラ人員の大変さをも推し量れるのだが、無人の列車の到着もさることながら(重要な脱出シーンでなぜ列車は駅にいなかったのか、そしてその間どこにいたのかまったく説明はない)、作り物の火星の映像に添えられた冒頭のナレーション(あれは誰の声だ、博士か)の文言、その語り、声のあり方は、なぜかオリヴェイラ的に見えるのだから、この化け物たちは、決してマッド・マックス的ではなく、上演の映画として、彼ら俳優の労働が刻印されているだけなのだ。今回、化け物の親玉俳優の演技を割と冷静に見たのだが、炎で丸焼きにすらされて、服も髪もぼろぼろの中、ほぼずっと雄叫びといかつい顔をされていて、お疲れ様ですと言いたい。Richard Cetrone as Big Daddy Mars ノミネート: 全米映画俳優組合賞スタント・アンサンブル賞。

(現代)シネマはこの世界を信じるためにあるとは、ドゥルーズだが、しかし、この、とは、どこだろうか。あまりに安易に情緒的な文言が挟まれていることに、平倉圭は、ドゥルーズを断絶させたが、むしろ、世界ではなく、言うなれば、俳優とショットであるのだろう。唯一絶対のフィクショナルな出来事。輝きと闇のもとに。でなければ一体、人々は映画館で何を観ているのか。等身大の同時代の同じ悩みを持つ自分たちの生活が映っているとでも?夜明けのすべて、とは、活動的生以外にはなく、ひとつの生、原節子、デンゼル・ワシントンと。ともすれば、1950年代に、日米合作で、この二人の映画(日本に不時着したデンゼルを、北鎌倉の家にかくまうのが原節子になるだろう)が観たい。realm的実感が、そのシリアスな手触りが、活劇のショットなしに、世界でるかのように見えるのがノーラン的な世界線であるならば、カート・ラッセルほどではないにせよ、無骨にスクリーンに居合わせるアイス・キューブなる何かもまた、俳優とショットであるのかも知れぬ。

Let's just kick some ass!
扉へのキャメラ前進がアイス・キューブ登場を予告し、扉バーンからの銃器投げ渡しカッティングインアクション。久々に見ましたが完璧です。ドライヤーオマージュにしても、古典的に正しすぎるアナクロニスムが混濁というか過剰として画面に張り付いてしまうのはダーク・スターから一貫してあるカーペンターの作家性ですね。同時に隙だらけの過剰さなので、それが愛嬌として機能しもするという。

その点、装った過剰さを捨てた2000年代のクレイヴンはいつ見直しても透明なのかもしれません。最近全然見直してませんが、隙のない透明さに当時惹かれました。パニックフライトはその意味でクレイヴンの最高傑作だと思います。

カーペンター、インタビュー中に咳を。ゴダールもストローブも咳込む映画作家。
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