カラン

首のカランのレビュー・感想・評価

(1968年製作の映画)
3.5
第二次世界大戦の頃、警察が取り調べと称して暴行をふるい、不遜にも隠蔽してきた事態が露呈した「首なし事件」を担当した弁護士の書いた原作を、橋本忍が映画用に脚本化。監督は『八甲田山』(1977)の森谷司郎、撮影は『七人の侍』(1954)の中井朝一。

☆冒頭のモンタージュ

①雪降る古家

寒村の古い家屋をロングショットで捉える。ハイキーであるが、物質が織りなす襞を捉えた、複雑で微妙な陰翳の襞を捉えるモノクロームの孤独な、美しさは、おぞましさを発散し、何かが起こったことが分かる。実際に劇中でこの家で何かが起こることはないのだが、何かが起こったのに違いない、そんなオーラが滲みでている。

②戦争の写真

続いて太平洋戦争の写真が数枚映される。砲撃のSEがついている。映画の時空を定めるエスタブリッシングショットのようなもので、映画が大戦中の首なし事件を扱うことを示す。

予算が潤沢なので、戦争映画でないのに、映画の物語の前史として戦場を描こうとしたのは、ケネス・ブラナーの『ナイル殺人事件』(2022)だが、その戦場は小さく、緊張感がない。フィリップ・カウフマンの『存在の耐えられない軽さ』(1988)は中盤に、レオス・カラックスの『ポーラX』(1999)は冒頭に、それぞれ戦争映画ではないが、戦火のショットが含まれる。両作品とも従軍カメラマンやジャーナリストたちの歴史的アーカイブを使って、凄まじい手腕でリメイクして、映画と戦争を関連づける。戦争映画ではないが劇中に戦争を導入しようとしてきた映画は無数にある。しかしこの2作は比類がない。

本作がSEをつけた静止画を何枚か提示するのを観ていて、ケネス・ブラナーよりも良いと思った。戦争が戦争であるならば、死と破壊と不安と緊張を描かなければならないが、それを挿入される1シーンで実現するのは難しいのだ。だから本作が戦争の模倣シーンをやらないのは良識のある自粛なのである。

それにしても写真である。音がついた。静止画を、一枚一枚、そこそこの間、持続させるのだが、散文詩の断章のようにカットされる。良いと思うが、同時に、疑念がよぎった。

③取調室

いきりたった警官が容疑者に自白を強要している。自白しない容疑者に不満が爆発した警官が、後ろから髪を掴み、殴りつけようとする姿で、カット。殴りつけたことによる接触と反動のエネルギーを放出するショットはない。

モノクロームの映像は取調室の冷たい壁に囲まれて座っている容疑者と警官の姿がその壁に反映しているところまで映し出していなかったか?中井朝一の素晴らしい映画空間の撮影に惚れ惚れしていても、殴りつけるところは映さないが、殴ったことになるカットは、②の戦争の静止画の際によぎった疑念を増幅する。まさか、出来事を映さないが、出来事が起こったことにする、虚偽の映画ではないよな、と。


☆虚偽

ホラー映画に駄作が多いのは、出来事を撮影できないがために、恐怖の表情のカットバックによって誤魔化す映画が多いからである。このような誤魔化しこそが虚偽であり、不可能を撮影するという挑戦を映画から奪い去ってしまうのである。結果的に、毎度おなじみの驚いた顔のオンパレードになるのは、まったく阿呆の画廊である。悪魔だろうと、ゾンビだろうと、ゴーストを映さないならば、それを見て驚いている顔は皆同じであるのだから、他でもなくその映画を観る意味が消滅するのだ。作品の固有性を消滅させるウソで不出来を隠す態度、それを映画の虚偽という。

本作の冒頭のモンタージュを観ていて、まさか虚偽の映画ではないよな?と感じたが、残念な結果であった。


☆顔のクロースアップ

中井朝一が抉り出す映画空間と、小林桂樹の苦虫を噛み潰したような表情のクロースアップに本作は二分される。例えば、アーチの下の漆黒の影の中で小林桂樹を捉えてみせて、映画の空間性と人物の物語性を融合させたショットは1つか2つしかない。中井朝一の生み出す映画空間はすぐに、顔に集約されてしまい、空間性をまったく活用しない非-映画的展開が続く。まるで犬神家の一族かとでもいった調子の大滝秀治の顔、切り落とした首のホルマリン漬けのガラス容器の中の顔、戦後の別の裁判で弁護士が犯行を再現してみせて、これでもかと刃物を叩きつける仮面の顔。

なぜかくもくどくどと顔を連鎖させるのか?答えは1つ。ある格別な顔を本作は捉えようとせず、その顔がホルマリン漬けにまで変容するプロセスを、すなわちアクションを、映画にしないからである。あるいは、死体の頭蓋を解剖して摘出した脳を正面から映し出せないからである。大滝秀治が割いた脳は、筋模様が描かれたビニール製の咥えて膨らませるボールのようにしか見えないし、監督の森谷司郎にも、これは鑑賞者に観せられないと思えたからなのである。こうして、中井朝一が捉えようとする映画空間を遺棄するように、本作は映画の虚偽としての顔のクロースアップに終始して、映画を卑小なものにしてしまうのである。


☆フェティシズム

毛皮へのフェティシズムは去勢の事実に対する無意識の否認である。本作の顔面へのフェティシズムは、死に対する無意識の否認である。


☆この映画の死について

あるレビュアーが本作に関して、「死体の腐食をサスペンスのためのタイムリミットとしか扱わない倫理観のタガのはずれっぷり」を指摘している。このモラルの欠落は、わざわざ斬り落としてきて、ホルマリン漬けで保存されていた首が、空襲の戦火で焼失されて、「この物言わぬ口ならぬ首が、物を言ったのだ」とかというエピローグで頂点に達する。この得意げなエピローグにはさすがに呆れる。警察が隠蔽する戦中の暴力行為を告発する目的が果たされると、死体損壊すれすれで斬首して持ち帰った首を埋葬しないままに消失させてしまい、茨城の墓の首なし死体は放置して、あのエピローグというのはあまりに不敬だ。

しかし、おそらくそのレビュアーはしっかりした映画鑑賞をするが口数は少ない人なので、本作に関して他に書くことがなかったから、倫理観の話をしただけなのだろう。実際、脚本を仕立てた橋本忍の倫理観などは2次的なことである。自明だが、弱者に暴行をする/しない、麻薬を使用する/しない、不倫をする/しない、が映画の良し/悪しを決めるのではない。本作が虚偽の映画であるのは、死体に対する不敬が理由では、ない、のだ。

本作が死を描かないからである。死者を死者として映し出さないがために、結果的に、死体への対応に著しく敬意を欠くことになるのである。この映画が楽しいと思う人は、本作で《死体》を目にした気になっているだろう。まさか敬意の欠落について指摘してくるようなレビュアーがいるとは、夢にも思わないだろう。それは騙されているからである、《映画の虚偽》に。

繰り返すが、本作は映画として《死》を見つめない。本作の死はサスペンスの時限を煽る対象、すなわち、ヒッチコックの言う「マクガフィン」である。弁護士が自説を証明するための証拠品である。他者の《死》そのものの代わりに、《死》を目の前にしたであろう人物の顔を見て、《死》に触れた気にさせる映画なのである。しかし、この《死》はそれを目にしている人物の顔を通してのみ鑑賞者に到来する。この映画が楽しいと思う人は、自分が《死》ではなく、顔ばかり観させらているな、邪魔だな、しつこいな、とは感じないはずだ。恐るべき《死》を目にしているはずなのだと、小林桂樹の顔を観ながら大いに勘違いしているはずだ。

この映画は冒頭からして、一度として、核心に迫らないことは、上で確認した。本作は核心を眼差す代わりに、核心に触れた気にさせるカットバックという虚偽を永遠に撒き散らし、同時に、サスペンスの正体が死体への不敬に他ならないことを忘れさせようとするのである、映画を映画として鑑賞しようとしない人たちに対してである。ショットをショットとして体験しようとしないのに、内容や意味を捉えようとするからこそ、すぐに騙されるのである。《死》とそれを前にした顔の区別がつかなくなり、カットバックがカットバックとして体験できなくなる。つまりは、映画を鑑賞できなくなる。昔から映画はイデオロギーの伝播手段であったが、開き直るべきではない。区別がつかないのは、まずは鑑賞の仕方が分かっていないからだ。ショット、そこから映画は始まる。

DVD。
カラン

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