押井守のリアリズムが炸裂する。
今作では、”日本における空虚な平和”に関して。
群像劇における脇役にあたる人物を物語の中心において、リアリズムを表現する手法はそのまま”イノセンス”に通づる。そういう意味で土台は盤石。むしろ脇役と言われる人にこそ物語の本質が宿っているという事実の掘り起こし。
隙のない大人達を見ていると、生きる意味とはなんなのかという人生哲学さえ浮き上がってくる。
いや本当は世にある脚本の9割が、そこに到達することができない、もしくはそれを放棄した多幸ドラッグのようなものに過ぎないのかもしれない。
押井守は群像劇というフォーマットで一段も二段も格上げすることに成功している。
ノアやアスマが脇に追いやられ、彼らの存在感が薄まってるかというとそうではない。
「いつまでもパトレイバーに頼りきりの女の子でいたくないの」
彼女らのセリフは映画を通しても数行だが、無駄な行も余計な行もない。
これはアニメ映画だが、ただ一つの映画として永遠に残すべきものだ。