レインウォッチャー

ハズバンズのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ハズバンズ(1970年製作の映画)
4.5
愛はカオスの中に。

家族ぐるみで付き合う親友4人組の中年男たち、そのうちの一人が急死した。
葬儀の後、残された3人は家庭にも帰らずくだを巻き、行き当たりばったりの放浪を続ける。やがて衝動的にイギリスにまで足を延ばすが…。

急な喪失に動揺し、やり場のない思いをぶつけ合いながら日常を取り戻そうと足掻く男たち、その友情と再生…

…と観るのが、おそらく正攻法なのだろう。
しかし、本当にそうだろうか。何なのだろう、この哀しみとも痛みとも名付けられない、ただ深いグレーに沈む感情は。
まるで、ぐるぐる回された挙句ようやく流れたと思ったらその先で詰まっていて、ゴボリと戻ってくる便器の中にいるような気分だ。分からない。分からないのに底なしの吸引力で二夜続けて観てしまったのだけれど、わたしにはまだ整理がつけられておらず、喉の奥がゴボゴボと鳴り続けている。

だいたい、一体どんな計画や指示を行えばこんな映画が撮れるというのか?
ハリー(ベン・ギャザラ)、アーチ(ピーター・フォーク)、そしてガス(監督でもあるジョン・カサヴェテス)。彼らのガキじみたじゃれあいやチープな凶暴性は「ホモソーシャル的」と片付けてしまえばそれまでだが、一応同じ男性であるはずのわたしから見ても彼らの心情は不可解と非連続性の極みだ。

しかしそれは、映画として下手で破綻しているということではない(ところが意味不明)。所謂ステレオタイプとは真逆の、「圧倒的な個別」がそこに在るからだと思う。彼ら本人にしか分かり得ない関係性、映画が始まる前からの人生の積み重ねが確かにあって、そのうえで成立していることが伝わってきて、だから分からないことは必ずしもマイナスにならない。
そこにはある種冷徹な拒絶とでも呼ぶべき壁があるのだけれど、他者のわからなさというリアルに安心を覚えもする。ホワイトノイズに落ち着くのと似ているかも。これを何かキャッチーな映像効果もなし、音楽もほとんどなしに、演出や演技で成し遂げているというのか。

どうしよう、ここまで「分からない」という情報しか書いてない。難産すぎる。

タイトルのHusbands、つまり夫たち。男たち、や友人たち、ではないところに、「役割」に縛られた息苦しさを見て取ることができる。葬儀に着た黒いコートルックは、彼らを画一化された存在に見せる。
彼らが形成してきた人生は、きっと友人関係や仕事、家庭も含めて実に「アメリカ的幸福」らしいレールに沿ったものといえるのだろう。しかし実はそこには彼ら自身も気づいていない虚飾があって、どこかでロール(役割)を演じていたに近い(冒頭近く、アーチは「嘘が人を殺す」と言っている)。スチュワート(4人目の男)の死という思いがけないイベントによって調和は崩れ、彼らはリハーサルの準備もないまま新たな台本を立て直さなければならない…

思えば、親友の死に端を発する物語である割に、彼らの中でその死を悼んだり思い出を振り返るような会話はまったくと言ってよいほど出てこない。この短くも濃密な旅(あるいは家出だろうか)を終えた後でさえも、だ。
彼らは何度も互いに「愛してるよ」とか「すごいやつだ」なんて言葉を掛け合うけれど、予測不能なスイッチが入って反発しあったりもするし、畢竟お互いに好きなのかどうかも定かでない。そしてそれは観ているわたしだけでなく、彼ら自身も薄々気づいているのだと思う。たぶん男には「ズッ友」みたいな概念は乏しくて、ある程度の縄張り協定が必要なのだし。

おそらくこの絶対的に信じられる感情の不在こそが、アーチやハリーが名付けた「罪悪感」の正体なのだろう。
ここには、作られた時代もまた関わりがあるように思う。時は1969年、新たな10年に突入しようとするタイミングであり、グレイト・アメリカなるファンタジーが崩れかけていた時でもある。彼らだけでなくアメリカという国全体が、危機(クライシス)に瀕していたのだ。

…などとなんだかシリアスぶってしまったけれど、流石にこれはコメディでいいんだよ…ね…?というシーンも連発されるし、最後の最後にはそれでも「兆し」を見つけることができるだろう。
それに、のっぺりと均された人生(とその崩壊)への不安にぶつけるのが、こんなにも個性を乱用し散らかした大クセ作品であるという点に、勇気を感じてみたりする。