カラン

アイム・ノット・ゼアのカランのレビュー・感想・評価

アイム・ノット・ゼア(2007年製作の映画)
4.0
ボブ・ディランというプロテスト、フォーク、ロック等のミュージシャン、詩人、夫、役者の半生を振り返る。


☆ 『モリコーネ』(2021)とは違う

ボブ・ディラン本人へのインタビューはない。崇拝者たちが出てきて「凄い、天才、感動した!」の賛辞を収録してもいない。


☆『コントロール』(2007)や『ボヘミアンラプソディ』(2018)とは違う

ボブ・ディランの模倣ではない。目指せ、「完コピ」ではない。ボブ・ディランは、「寝たら、たぶん今の自分ではなくなる。そういうことをぼくは気にしない。」と言っている。ボブ・ディランの「ぼく」は持続する実体としてごく普通の意味での自我ではない、ということである。しかるにこのような「ぼく」の模倣には意味がなく、完コピは不可能なのである。


☆トッド・ヘインズの作戦

17歳のランボーが、「《わたし》は考える、というのは間違いだ。《わたし》は考えられるんだ。」とか「《わたし》とは他人である」と喝破した。例えば、こうしたランボー的な思考が、上で紹介したボブ・ディラン的「ぼく」の多面体を形成しているのだから、1つ1つ、それを取り出し、かつ、収集をつけないことである。なんだか分からなくて当然なのだ。

実際、ボブ・ディランの多面体の描写で、ベン・ウィショーがアルチュール・ランボーに扮して、ランボー的な発言をする。しかし、ランボーの英訳を役者の妻で画家役のシャルロット・ゲンスブールが音読したり、ミュージシャン役のケイト・ブランシェットがパラフレーズしたりもする。したがって本作はボブ・ディランに詳しい人でも「よく分からない」となるだろう。しかし、だからいいのだ!

ボブ・ディランが誰にでも深くよく分かる映画はつまらない映画だろう。本作は深く掘り下げようとして、分かりやすさを犠牲にしている。それでいい。映画は解説本ではないのだから。そもそもボブ・ディランは2時間で理解できない。


☆例えば

①アルチュール・ランボー
ベン・ウィショーが演じる、フランスの象徴派の詩人。家出して無賃乗車でパリに初めて向かったのは15歳だった。詩人をやめたのは21歳だった。セリフは英語である。ランボーであるということがどこまで伝わるか、議論の余地がある。ボブ・ディランは黒人ではないし、女ではない。フランス語を話さない。しかし黒人の少年やケイト・ブランシェットに多面体を仮託するならば、フランス語で詩を読むべきだったのだ。フランス人の美術家で妻役のシャルロット・ゲンズブールもランボーを読むが、訛った英語。

②ジャック・ロリンズ/ジョン牧師
クリスチャン・ベイルが演じる。プロテストシンガーとゴスペルがうまく位置付けられていない。

③ジェイド・クイン
ケイト・ブランシェットが演じ、なんの説明もせず、トランスジェンダーというのか、異性装フェティシズムtransvestisc fetishismというのか、をやっているのが気持ちいい。エレキフォークのバンドもいい。しかし、出番が多くて、長い。ちょっと飽きる。

、、、等々、他にも相当に豪華な役者陣が色々やる。


☆16mmの撮影

雰囲気はある。アナログっぽいレトロな感じ。しかし、もっと良くできたのではないだろうか。



レンタルDVD。55円宅配GEO、20分の19。

モンテ・ヘルマン『果てなき路』は20日間で3回観たし、特典のインタビューも2回観たが、あまり頭に入らず。仕事の後だったのがよくなかった。また次回。
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