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パリの灯は遠くのまっとのレビュー・感想・評価

パリの灯は遠く(1976年製作の映画)
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黒沢清繋がりで観てからなんだか沢山気になってしまってここひと月ほどずっと観続けていた……けど年の終わりに一回気持ちをまとめておきたかったので書く……

最初に観たときは自己の喪失って、怖い!!と思いました
何回も観ているうちに「喪失っていうか、逆に得たの??」と思い始めました
最近は「自己を作るものって何だ!?!?」とウ〜〜〜ムつってバターンと倒れる感じです

ロベールがもう一人の自分(いや他人)を追い求めるうちに、本当にいつの間にか、私達が見ていたロベールは何だかおっかない狂った人みたいになっていきます 最初は女を転がしてユダヤ人から金をせしめて新聞社でも傲岸不遜 自分は安全地帯で人より良いところにいることが分かっている男だった
一体いつからか、画面に映るロベールは自分に自信を持たせていたものが持っていかれてしまいには牙を剥かれて、まるで失った自己を本当は他人の「もう一人のロベール・クライン」に求めるように追っかけていきました その人、あんたじゃないよ!確か!と言いつつこっちも「あんたかもしれない!」とちょっと気持ちがぐらつく ファンタジーじゃないんだからもう一人のユダヤ人のロベール・クラインはいたはずなのに、ロベールも私達もそれがロベールと同化するべき何かだと思い始めていた

自己の確立って同時に「他者は他者」を思い知ることだと思う 他者を他者と信じ切れないのは立ち返ると自己を自己と信じられていないということで、じゃあロベールが自己の拠り所としたものって何だ 生粋のフランス人である戸籍 富 それを稼げる世渡りの上手さ 女を転がせる魅力 それら全部は「ユダヤ人かも!?」だけで崩壊する代物だった そのくらい人を人たらしめないという意識を人に持たせている差別がおぞましすぎる
でも、そうでなくても例えば私が明日「実は○○人のルーツを持ちます」と言われたらそらびっくりするし足元ぐらつくと思う 民族への帰属意識はあって当然だとは思う ただそれと迫害が結び付けられる社会だからロベールはあんなことになる 冒頭のロベールみたいに「知らんがな」みたいな気持ちでいてはいけない……と強く思う……そしてそれを「あんたもああなるかもよ」みたいな気持ちじゃなくて「当然あってはいけない」の気持ちじゃないといけないとも思う……なのに私はこうして画面の向こうの視聴者の鏡写しみたいな登場人物を見ないといちいち気付けないんだな……アンテナを……アンテナを張らなければ……
まっと

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