カラン

残菊物語のカランのレビュー・感想・評価

残菊物語(1939年製作の映画)
4.5
季節の節目を表す5節句というのがあるらしい。1月7日は人日(じんじつ)で七草、3月3日は上巳(じょうし)で桃、5月5日は端午(たんご)で菖蒲、7月7日は七夕(しちせき)で笹、そして9月9日が重陽(ちょうよう)の節句で、菊となるようだ。菊が盛りをむかえる9月9日の節句を過ぎても、まだ咲いている菊を「残菊」というのだという。

あるいはまた、「残菊」とは節句の宴席に間に合わない、遅まきの菊のことも指すのかもしれない。「残菊」は晩秋の季語なのだという。溝口健二の『残菊物語』は、愛する誰かの一生に開花するのが間に合わない菊の悲哀を描くのである。1951年の作品で、新藤兼人が初監督を務めた『愛妻物語』では溝口健二と思しき映画監督が出てきたが、愛妻は本作のお徳を翻案したものなのかもしれない。


☆時代とあらすじ 

明治時代の初頭。梨園(りえん)に生きる歌舞伎役者・尾上菊之助は、後継ぎのいなかった花形の菊五郎の養子であった。そんな著名な父の指導も空しく、菊之助は方々で陰口を言われるほどの大根役者であったが、そうこうしている内に弟、つまり養父母の実子が生まれる。その弟の乳母をしていたのがお徳で、彼女は親の七光りだという陰口でつぶれかけている菊之助を励ますと、菊之助は気をよくするのであった。しかし、それを玉の輿狙いの取り入りだと養母に咎められて追放されると、反対を振り切って菊之助はお徳を追うのであった。。。

☆デジタル修復版 

2015年のカンヌで公開されたデジタル修復版のBlu-rayであっても、1939年の作品の音声はだいぶ劣化している。セリフの半分は聴き取れないので、字幕をつけたが、これは「バリアフリー字幕」というやつで、太鼓の音やすすり泣き等のSEについて、解釈まで盛り込んでいる。例えば、菊之助が名古屋で成功した後、「菊之助が公演で成功したので通路で皆が大変に盛り上がっている」という調子。聴覚障害の人には映画を説明してやらないと分からないと思いこんでいるのでは、、、などと要らぬことを考えたくなる難ありの「バリアフリー字幕」だが、それに頼らざるを得ないのが、このデジタル修復版の音声トラックの不良の具合なのである。

☆撮影 

本作はワンシーン・ワンカットを溝口健二が確立した作品であるらしい。松竹らしいセットの撮影であるが、ワンシーン・ワンカットをセットで実現するためなのだろう、カメラは役者に寄らない。ミドルレンジであっても、遠目で舞台の演目を鑑賞しているような体感のカメラである。あるいは、アングルはかなり遊びが入る。こうしてズームしないこととアングルで遊ぶことのどちらも、ワンシーン・ワンカットが例えばサム・メンデス&ロジャーディーキンスの『1917』のように形式だけのものにしていまわないために必要であったのである。成功しているだろう。140分の長尺であるが、まったく退屈しない。

①夜の川辺の道行 

序盤、お座敷の客や女たちに芸を馬鹿にされた菊之助が深夜にとぼとぼ歩いているのを、幼児を寝かしつけるために夜風にあてていたお徳が慰める。道の脇は堀になっており、カメラはその堀から2人をドリーで追いかけてローアングルで捉え続ける。映像を反転させたら、まるで夜の川面に反映した夢の中のようである。

②下町 

追い出されたお徳を菊之助が街中を探し回る。雑司ヶ谷であったか、街中は非常に複雑であるが、手前に通りがあり、その奥にも通りがあり、奥の通りで小僧に聞いて回ったり、その菊之助が手前の通りにやって来ると、カメラは家屋の壁や柱、その他視線を遮る構造体ごしに、手前の手前に引いたドリーで必死の菊之助を追いかけ続ける。空間にレイヤーを作りながら、要素数が少なく退屈になりがちなセットでの運動を映画空間における運動に変えようとするのである。

③X軸上の汽車 

名古屋から東京に向かう汽車にお徳の姿が見えないので、X軸上に伸びている汽車の車両を次々に探し回る。画面の奥がホームで手前に車両内部。カメラはそのさらに手前にあり、ここでも②と同様にレイヤーを作るために、車両の柱や窓枠等が菊之助の移動に合わせて追いかけるカメラを遮り、フレームを出入りする。

④歌舞伎 

細かいのもあるが、冒頭の四谷怪談と名古屋で成功した演目はかなり時間を使うのだが、これも舞台上にカメラが上がることはない。客席の後方から撮っている。お客さんの姿も映る。ワンシーン・ワンカットなので、カメラは後方から動かない。演者たちも舞台を広く動き回るが、後方から捉えた舞台の上である。ほとんど定点撮影だけのライブ映像は、アレクサンドル・ソクーロフの『モーツァルト・レクイエム』(2004)を想起させる。

ソクーロフのはオケが楽器を弾き、歌手たちが歌っている。観客の感嘆した顔のカットバックをする必要はないし、そうしない。この清潔な撮影の制約によって、ソクーロフは死と赦しが出現するのを、UFOが飛来するのを待つカメラのように、待っていたのではないか。UFOの有/無の前に驚愕の表情にカットバックをするやり方は映画を映画的でないものに変質させた。映画は世にもあり得ないものを映し出す芸術である。UFOの存在を映せないから、その反応としての驚愕のカットバックでUFOが存在したことにするやり方は映画的でない。

『残菊物語』は歌舞伎であるので、映像よりも本質的には音響が問題になるソクーロフよりも、サウンドトラックはいかれてしまっているが、生々しい存在がスクリーンを充溢させる。遠目の定点撮影なのに、冷たくよそよそしい視点のはずなのに、歌舞伎の芸で乗り越えてくる。ここで、もし歌舞伎をしくじっていたならば、ワンシーン・ワンカットの弊害であるということになっていただろうが、2度乗り越えさせる。さすがである。しかし、お徳は舞台袖や裏ではなく、観客席の最後列や立ち見席等に配して、後方からの撮影をお徳のPOVにして根拠づけておいたほうが良かったかもしれない。

⑤狂気 

絶対に寄らない。動的にワンシーン・ワンカットを達成するために、絶対に寄らないと決めている『残菊物語』で、お徳の喪失に狂乱した菊之助が画面手前にどんどん迫ってくる。カメラはドリーで退く。カメラを引く速度を菊之助の狂気が一瞬上回ったかもしれない。『残菊物語』の劇中でもっとも緊迫したショットであるが、さっとカットする。特別な技巧であるとか演技というわけではないだろうが、全体が構造的に統制されていることを感じている鑑賞者には、堪えられない短いショットである。夏目漱石の『それから』で、親から勘当された代助が飛び出して、食っていく手段、生きていく手段を探しに、妻を残して世界に足を踏み入れた時に、代助に取り憑いたぐるぐる旋回する狂気を想起させる。

☆四谷系の活用

歌舞伎の舞台で「東海道四谷怪談」をやるのだが、舞台上で戸板返しをやる。戸板返しというのは、四谷怪談系の映画で繰り返し描かれてきた、ゴースト出現の演出である。殺害されたお岩と丁稚の小平、ないし按摩の宅悦は戸板に釘打ちして川や池に遺棄されるが、恨みのある人物の前にその戸板が出現し、戸板の表面に打ち付けられたお岩のゴーストが呪いの言葉をいうと、反転して小平なり宅悦のゴーストも呪詛するというもの。『残菊物語』の戸板返しはなかなか立派である。しかし、それはお岩(と小平?)役の歌舞伎役者が舞台に登場する前の楽屋の時点で、既に生々しいかつらと化粧と女形の着物をまとって、舞台裏で既にゴースト化していたからである。このゴーストの生々しい存在感は私の見た四谷シリーズでは最凶の生々しさを実現した加藤泰『怪談お岩の亡霊』(1961)のゴーストを凌駕していただろう。

そういうわけでかなり立派な「四谷怪談」の劇中劇なのであるが、これが『残菊物語』の冒頭に置かれているのは、無論、お徳の非業の死を予告しているからだろう。しかるに、四谷系ではお岩はゴースト化するが、『残菊物語』はゴースト化してもよいし、しなくてもよいが、ラストで象徴ショットをやるべきではないのか?繰り返すが、お徳が菊之助に取り憑く必要はない。お徳を最後まで善良なものとする物語であってもなくても自由だ。しかし、この『残菊物語』は象徴性が弱くないだろうか。何でもいいが、人生の何かに向かって映画の全てを送り出す力が足りない。

失礼な見立てだが世間の多くのシネフィルは象徴性に対してけっこう鈍感である。この鈍感さは、映画の表面の出来ばえに固執するという映画鑑賞における美徳の、副作用なのである。逆にシネフィルでない人は、スクリーンの表面に投影された光のあり様を無視して、象徴性だけを求めるあまりに自分の感性と知識に映画を落とし込み、その共感/理解できる範疇に映画の全てを還元してしまう。だからシネフィルが欲する映画を非シネフィルは観-逃す。

そういう意味で『残菊物語』はシネフィルが喜悦を上げる映画であろう。しかし、だ。偉大な芸術にはそれぞれの芸術が本質とする固有のモード(映画であれば撮影とモンタージュを、絵画であれば絵の具の調合と筆さばきを、詩であれば文字と音を、意味よりも優先し、内容を勝手に想像しない態度)でしか近づくことができないにも関わらず、一様に芸術はその芸術とは別の何かに向かわせるものなのである。

例えば、ロダンの『考える人』を考えてみてほしい。あのブロンズの塊はいったい何を考えているのか?あれがダンテのことならば、《詩》について考えているのか?それとも、元々、『地獄の門』の上部中央に設置されていたのだから、地獄について考えているのか?ということは、つまり、《私》のことを考えているのか?

偉大な芸術は何でもいいが何か他なるものへと鑑賞者の思考を絶えず誘引する力、象徴性を備えている。『残菊物語』を観終わって、常に別のものへと回付する力を感じなかった。気持ちよく観終わり、ありきたりの感情だけが残った。象徴性を纏うために、四谷怪談という別のものを利用するのは合理的なはずだ。



Blu-rayで視聴。
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