9位

時計じかけのオレンジの9位のレビュー・感想・評価

時計じかけのオレンジ(1971年製作の映画)
4.3
善と悪の順序の話。

最新鋭の治療をもってしても、ひとの性質を、まるっきり善に変えることはできなかった。(そもそも、このシステム自体が、悪心の反動として善行を促進するものだから、上記は前提だったのかもしれない)

そもそも、悪心と善心というものは人間の心になくてはならないもので、それらの調合ともいうべき絶妙なバランスで、私たちの「心」というものは存在している、いや、むしろ、散逸的な、吹きすさぶ悪心と善心の大渦の中に、ぽつねんと台風の目のように存在する ”空虚”こそが私たちの心の本質と言うべきものなのかもしれない。物語終盤、アレックスは自殺を試みるわけであるが、これは、心内に凝縮された悪が向かう矛先が他者から自己へ向かっただけであり、決して、善心ゆえの自己罰ではないのである。

悪心も善心もどちらも人の心だね、となった上で、問題となってくるのが、じゃあそれらの、どちらが先でどちらが後に生まれたのかということである。(善心と良心は別物であるとわたしは考えるので、ここでもその文脈を継承する。)
途中、キリストの引用がなされていたように、人々はイエスを処するといった轟々たる「悪業」から、現在の普遍的な「善」の祖師であるキリストを生み出した。
他にも、例えば「善のルール」である法律にしたって、前例となる犯罪を受けて制定されるものである。

じゃあ、悪が先なのかと決めかかるとそういう問題でも無い。
法律の例を用いるならば、果たして、その犯罪を受けて法を制定しようというその心は善ではないのか?

つまるところ、善悪は支え合って存在しているのだ。バランスが崩れては、もろとも消滅する。
我々の心が善と悪のせめぎ合いでできた"空"であるように、善と悪それ自身もまた、渦巻くそれらの波の間隙に存在する"虚"であり、この社会の"心"でもあるのだ。
9位

9位