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市民ケーンのharunomaのレビュー・感想・評価

市民ケーン(1941年製作の映画)
4.6
なかんづくジョゼフ・コットン。
グレッグ・トーランド。スクリーンではじめて観た『市民ケーン』において、ケーンと同志たるリーランドが仲違いした後、リーランドからケーンが与えた小切手とともにケーンの書いた新聞宣言が返送されてくる場面で、そこにとりかえしがつかないほど大切な何かが、ガラガラと音をたてて崩れるのをみたために、思わず涙を流してしまう。松本が感慨に襲われた理由は、その後に孤独に死んでいくケーンの晩年と同じく、リーランドもまたいやしい老醜の姿で死を待っていることにもある。ケーンとリーランドの関係は、友情と同志的連帯の問題におけるケーンの社会生活での矛盾を表現しているとすれば、同様の構図で愛の問題におけるケーンの私生活での矛盾を表現しているのはケーンと妻のスーザンの関係である。自己中心的なケーンは、リーランドとの関係と同じく、スーザンとも別れ、スーザンもまた廃人同然となる。このように『市民ケーン』のドラマ性は、すべてが理想主義的な一体感を求めながら、それが「状況の深部」に規制されつつ解体する悲劇にある。一方で富と名声とかぎりない権力を手中にしながら、他方では友情も同志的連帯も愛情も失ったケーンの生涯に、ウェルズが、十九世紀の末から一九四〇年にかけての、アメリカ資本主義の物的繁栄と人間喪失の歴史を鋭く洞察していたことは疑いがない。ウェルズは、ケーンの内面をとおしてアメリカ自身の根深い病巣を抉りだし、「私はアメリカ人である」という主体的なフォーカスから、すでに見失ってしまった「ばらのつぼみ」、すなわちケーンの新聞宣言の精神、したがって初期のアメリカン・デモクラシーをとりもどせと主張したのである。

スーザンのオペラのデビューの幕開けは慌ただしい舞台裏から始まる。観客席の全景ショットはない。だらしなく客席に座り、舞台を見向きもしないリーランド。退屈そうにしているバーンスタインたち。ケーンだけがただ一人、暗がりの中に浮かぶ顔で、目を見開き、舞台を見ている。翌日のインクワイラァの新聞には、リーランドによるオペラの酷評が掲載され、リーランドから小切手と新聞宣言が送られてくる。しかしケーンはスーザンに歌い続けろと言う。新聞宣言を破り捨てた後のケーンは、新聞にスーザンのオペラの賞讃記事を載せ始める。スーザンのオペラは、ケーンの金と権力により成り立っている。その上に、虚言の記事で飾り立てることは、ますます内実を伴わない虚構の中に入ることを意味する。画面は公演を重ねるたびに賞讃を送るインクワイラァの記事に、スーザンが歌う姿、歌を正そうと躍起になる歌の教師、監視するような眼差しで見るケーンの顔がオーバーラップされる。騒々しい伴奏にスーザン歌声が悲鳴のように聞こえてくる。途中、天を仰ぐスーザンのフルショットは、歌声と相まって、助けを求めているようにさえ見える。開演前に舞台上に吊るされていた安っぽい電球の光は切れ、スーザンは自殺未遂をする。ベッドの上の彼女は痩せ細り、熱にうなされた顔はゾンビのようだ。スーザンにおちる窓枠の影が、彼女が捕えられていることをさらに強調する。ケーンの資本により成り立つ虚構の接ぎ木としてあったスーザンの身体は悲鳴を上げる。幸福のための繁栄であったはずだが、いつの間にか、繁栄だけが最優先となり、資本により成り立つ虚構。ここにあるのは20年代の大衆消費社会へ突き進むアメリカの資本主義においての人間疎外ではないだろうか。ところで、オペラのデビューにおけるスーザンの最初のアップとケーンとの切り返しは、ケーンが他の観客の話し声で視線をそらしたために失敗に終わる。ケーンのためだけに歌われるスーザンのオペラにおいて、切り返しが失敗に終わるという皮肉は、ケーンの愛が、真実のそれではないことを証明していないだろうか。
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