Jeffrey

日曜日のピュのJeffreyのレビュー・感想・評価

日曜日のピュ(1994年製作の映画)
3.0
「日曜日のピュ」

冒頭、スウェーデンの新緑の夏。子供の時の回想、1人の金髪少年とその家族。父との教会への道のり、自転車、列車、嫌いな兄、ミミズ、怪談話、両親の別居の危機。今、ベルイマンの過去が明かされる…本作はイングマール・ベルイマンが自身の幼年時代の体験を元に書き下ろした脚本を、実子で本作が監督デビューとなるダニエル・ベルイマンが、伝統的な北欧児童映画のスタイルで映画化したファミリードラマで、1992年に製作されたビレ・アウグスト監督「愛の風景」の続編に当たる。92年モントリオール映画祭にて、最優秀芸術貢献特別賞を受賞している。ベルイマンが自らの両親の出会いを綴った「愛の風景」。その両親の不和と子供たちの成長過程を描いたのが本作である。監督は生涯にわたり心の中で抱きしめてきた夏の日の記憶を、愛息のダニエルが監督したスウェーデンの美しい風景とともにフィルムに刻み付けたベルイマン映画の集大成と絶賛された作品である。晩年不仲だった父への深い憧憬が感動を呼び、全世界で大ヒットを記録したそうだ。これ近々ivc辺りからBD化されないかな。



さて、物語は7月の終わりのある日曜日。私は、ちょうど8歳を過ぎたばかりだったと思う。信じられないことに、私の家族はチェーホフの登場人物が暮らしているような夏の家に住んでいた。そこは、田舎を溺愛する熱狂的な愛国主義者たちがスウェーデン人の心の故郷と呼ぶにふさわしい土地だ。私の家は大家族だ。母、父、エマおばさん、3人の子供たち、子供たちの面倒を見るマイ(私は彼女が好き)、歳をとったおっかない料理人のエレン・ニルソンさん、そして家族同然のマリアンと言う若い女性(私は彼女も好き)。でも私は母が1番好き。みんなの関係は複雑だけれど。父は、土曜日の午後にストックホルムから列車でやってくる。近所に住んでいる叔母は、どこかちょっと変わっているカールおじさんと一緒に、午後になると私たちの家にやってくる。

母と祖母は互いに嫌っているけれど、キリスト教的寛容の精神と言うやつを示し合う。エマおばさんは便秘で、イチジクをほおばっている。彼女の体重は100キロを超えていて、でっかくて醜くて不幸だ。ベビーシッターのマイと私は、森を抜けて農場まで歩き、夕食のミルクをとってくる。私は、彼女と2人きりでいるのが好きだ。彼女はいい香りがするから。子牛が小屋の外で殺される。それまで、動物が殺されるのを見たことがなかった私は突然の出来事に恐怖を感じたが、それを外に出すような真似はしなかった。兄(私より4歳上)と私は台所で夕食を食べていた。料理人のエレンが、自殺した時計職人の身の毛もよだつ怪談を語る。男は叔父の時計を持っていた。その時計には、時をひっくり返す危険な怪物たちが宿っていた。

男は、怪物たちを殺さざるを得なかった。ところが彼自身が、私たちの家からそれほど遠くない森の中で吊るされたのだ。私にとってこの話は、おとぎ話ではない。それは全て現実の出来事のようだ。私は、どうしても皆が言うところの現実と私自身の夢や幻想との違いを述べることができない。私はアデノイドにかかって以来、四六時中口をぽかんと開けているので、ちょっとばかみたいだ。口を開けろよ、ピュ。皆はいつも私に言っていた。皆、私のことをピュと呼ぶ。アーンシュトン・イングマールと言う名で洗礼を受けたと言うのに。いつものような日曜日の朝食。父は、説教するために20から30キロ離れた小さな教会へ自転車で向かう。一緒に行こうと父が私を誘う。私は全く気が進まなかったが、断るのも怖かった。兄はと言うと、そんな私を見て意地悪く笑っている。

そして台所の階段の裏で、まるまる太ったミミズを差し出すと、それを食べたら75オーレやると言う。私はそれを食べた。すると兄はこういった。こんなミミズを食べるほど馬鹿だなんて、お前は75オーレの価値もない…私は兄を殺す良い方法を考えようとしていた。私たちは、そんなに仲良しとは言えない。これから父と私は、ちょっとした遠出をするわけだ。私は自転車の前の荷物を置きに腰掛け、父の帽子をしっかり握っていた。すぐにでも雨雲がやってきそうな蒸し暑い日だった。はじめの10キロほどは、ちっぽけな列車に乗り父と話をした。私たちは滅多に話したことがなかったのだ。父は親切で、私のどんな話にも興味を持ってくれた。その後、私たちは夏真っ盛りの田舎道を自転車で進んだ。いろいろな人たちに出くわした。父は人好きで、誰とでも気やすく会話を交わした。

私たちは小さなボートに乗って暗く渦巻く川を渡る。父は他の乗客を手伝っている。私はボートの先端に腰掛け、足を水の中でぶらぶらさせていた。突然、父が私を引っ張り上げ耳の横を3回叩いた。父は猛烈に怒っていた。もしそのままだったら、ボートの下に引き込まれて誰も気づかないうちに溺れ死んでいただろう。少年にとって、父親の突然爆発する癇癪、時折見せる説明できない凶暴性と折り合いをつける事は、とても難しい。ましてや、前の晩に母親と喧嘩した後だとなおさらだ。そこには、愛があり、悲しみがあり、涙がある。父と息子は次第に和解する。それには双方の努力が必要だ。まもなく鐘が鳴り響き、私たちは小さな古い教会に到着する。父は服を着替え、説教の準備をする。私は共同墓地をうろつき回り、葬儀のための礼拝堂にこっそり入る。すると最近死んだ女性が、蓋の開いた棺の中で横たわっている。またもや死が、私の背後に忍び寄る。

父が説教している。キリストの復活について、つまり驚いた十二使徒の面前で神がキリストの存在を認めるときの話だ。これが私の最愛の息子だ。私は彼に大変満足している。私の想像の中で、その役は取り替えられる。私はキリストで、父は雲の隙間から語る。兄と兄の友人たちは、そこに突っ立って目がくらんだように羨ましそうにしている。帰り道は、父と私にとって素晴らしい気晴らしだ。蒸し暑さはそのままだけれど、丘の上に重くのしかかっていた雨雲は空の高みに移動し始めている。私たちは、深い峡谷の底にある湖に泳ぎに行った。大きな瞳のように暗く、底無しの湖だった。父は珍しい花を見つける、引き抜いて観察した。父は花については、あらゆることを知っている。

私たちが本堂に戻ると、ついに嵐が起こり、荒廃した農場の見捨てられた小屋に逃げ込んだ。私は、これこそ最後の審判に違いないと思った。この嵐が世界の終わりを予告するものであるとして、自分が父と一緒にいることに安心感を覚えた。キリストの右手に上で天国に行ける人々を示す稲妻が二度、大きなカンパの木を襲い木は苦痛で捩れ、もがき苦しむ。雷雲は遠ざかり、重く湿った雨雲がやってくる。私たちは、避難所を出た。自転車のタイヤはパンクしたけれど、気分は爽快だ。その時、私が父に言った言葉を覚えている。父さん、いつもこうやって遠出したいね…とガッツリと説明するとこんな感じで、父と子で描いた心の風景をとらえたVHSに残すのが惜しい作品である。

どうやら親の七光と言うような道を選ばずに、映画館で映写を教わり、父やアンドレイ・タルコフスキー監督の作品を手伝い、カメラ助手からプロデュースまで、全てを現場でまだんだそうだ。それにしても偉大すぎる父親ベルイマンの作品と比べられてしまうのは確実で、ダニエルにとっては非常に困難な立ち位置にいると思う。しかしながら、少年時代の自分と父との関係をかなり事実に近く描いたものである。息子かつ孫の彼にとっては微妙な題材かもしれないが、すでに自分のスタイルを確立し、それが好感されてモントリオールで賞を受賞しているのだから誇っていいと思う。原題の日曜日の子供とは幻想の能力があり、亡霊や将来さえ見られる幸運な子のことである。けれどもその優れた感受性のおかげで、ピュすなわちイングマールは父の愛が自分には薄いのではないかと悩み、両親の間の亀裂まで発見してしまうことになる。

幼い彼は早くも死を恐れ、聖職者である父の外面の良さを憎む。でもいちど父の出張に連れて行ってもらい、花や草の名を教えてもらう、人生は光を取り戻す。そんな心の風景が愛らしく語られる映画がこのダニエルの作品である。それにしてもスウェーデンと日本は地球の正反対に位置する国々なのに、日本では圧倒的にベルイマンの作品は絶賛されているのが多い。こういった子供時代の思い出と父と息子の関係を描いている作品は私個人非常に好きなのだが、この作品のテーマは、あまり人の自伝的すぎるなと。悪くわないが…。と言っても巨匠と言う人物は晩年近くになると、どうも自伝的な作品を手がけたくなる人が多いらしい。彼の脚本だった愛の風景はアウグストに監督させ、両親の肖像を綴っていたし、本作の脚本は息子のダニエルが監督して、少年時代を回想している。映画監督を辞めると言ってから、親しい人々に自伝を任せている点は、ベルイマンらしいと言えば良いのだろうか。


いゃ〜、前から映画のタイトルも知ってたしベルイマンの息子が監督したと言うことも知っていたが、なかなかVHSを見つけることができなかったが、ようやく手にすることができたためこの度初鑑賞したがやはり良かった。夏をテーマにしているからちょっと季節外れで見るのを躊躇したが、とりあえず早く見たいと思い今回鑑賞した。この映画の好きなエピソードがあるのだが、やはり父親と息子が自転車に乗る場面がなんとも家族らしい。私も小さい頃、自転車を初めて乗る際に父親に教えてもらったものだ。冒頭の、スウェーデンの美しい風光明媚の中、線路の中心を歩く1人のブロンド少年が映されるファースト・ショットで始まるのだが、ギターの奏でる音と、虫の鳴き声、原風景の夏の木漏れ日がなんともスウェーデンの美しい夏の風景をフレームインさせている。子役の子供がまた可愛らしい。といってもこの作品はベルイマンのプロテスタント教会の牧師であった父親に対しての不信だったり非合理性に対して許せない気持ちがあったのだなと感じ取れた。それでも厳しさと優しさを併せ持つ父の思い出を追憶深く愛情をもって描いているなと思う…といっても息子だけど監督は。

この作品に普遍的な意味があるとするならば、50歳まで父親を許さなかったベルイマンが、70代半ば迎えた当時に父親を許そうと言う気持ちがし始めたんだろうと思う。ここまでの深い心の傷を負って68年当時のベルイマンは数々の作品、「処女の泉」「第七の封印」「沈黙」「野いちご」などを作ったんだなと改めて驚くばかりであるし、ベルイマンマジックの秘密がこの作品を通して我々観客に感動とともに解き明かされでいく展開へと繋がるのが素晴らしかった。この作品はどうやら子役を2000人の子供を面接したが、スクリーンテストをしたのが主人公のヘンリックだけだったそうだ。それほど彼が素晴らしかったと言うことであろう。確かに、彼は非常に感じやすく敏感な少年をうまく演じきっていた。子供時代と言うのは人生でー番複雑な時期だと思うのだが、その頃の少年像が非常に良かった。この作品はベルイマンの書いた本の魔法のランプの中の小さなエピソードが元になっているそうだ。

そもそも曜日占いは、聖書の創世神話を宗教的に解釈した占いである。個人の性格を的確に分類しており、多くの人に信頼されている。ここで日曜日生まれの人は、聖書によれば、日曜日は神様が天と地を作った日。この力に象徴されるように日曜日生まれの人は、何もないところにものを生み出す想像力とオリジナリティに富んだ、とてもユニークな人とのこと。また、最初に闇ばかりだったこの世に、後から神様が光も差し掛けたことから、日曜日生まれの人は、若年期と光がさした後の時期で運気が大きく変わることも特徴の1つだ。さらにヨハネが霊感を受けたのは日曜日だったと黙示録にあることから、霊感が強いとも言われている。常に新しいものを追い求め、自分の手で作り出すことに喜びを感じる。元々そういう作業に向いていることもあり、また人一倍勝ち気で頑張り屋なこともあって、独自の分野で成功を収める。ちなみに月曜日までの人は、聖書によれば、月曜日は神様が陸と海を作った日になっており、火曜日は神様が陸に植物を植えた日。水曜日は神様が1日を昼と夜に分けた日。木曜日は神様が魚や鳥や獣などの生き物を作った日。金曜日は神様が自分の形に似せて人間を作り、動植物と家畜を与えた日。土曜日はこの世界を作る作業を終えて、休みを取った日となっている。
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