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スパイのchibakoのレビュー・感想・評価

スパイ(1957年製作の映画)
4.0
新文芸坐のレイトショーにて「スパイ」。
わたしの中では増村保造やジョン・フランケンハイマーと同じ箱に入っている、敬愛するアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が手がけた1957年の作品。初見。

金にならないふたりの入院患者を抱え、経営難に陥っている精神科の開業医が、怪しげな人物からまとまった報酬と引き換えにちょっとした仕事を引き受ける。
それ以来、彼の行く先々で、入れ替わり立ち替わり秘密めいたおかしな人たちが大量に登場し、彼はわけもわからずにただ翻弄される。
彼がおんぼろのモペットに跨って、病院の周囲のいくつかの場所を繰り返し行ったり来たりしているさまは、抜け出せない不条理な迷宮に迷い込んだように見える。
やがておぼろげにヒッチコック風の巻き込まれ型サスペンスのプロットが見えてきて、物語が大きく転換するのだが、サスペンス映画で起こるべき劇的なアクションは、ほとんどすべてフレームの外で起こり、気がつけば何人かの人が死に(もしくは死んだことにされ)、広げられた風呂敷は勝手にきちんと畳まれて、やがて全ては無かったことにされてしまう。

わたしたちの知らないところで、ひと握りの人々が、わたしたちに何も知らせぬまま世界を意のままに動かしている、ということをこの作品は描いている。
精神科という設定も、その「ひと握りの人々」から見れば、わたしたちは精神疾患と診断された患者と同じく、何もわからずただ混乱したままに生きているのだ、ということではないか。

冷戦下の図式で対立するプロフェッショナルな勢力は、現場ではお互い握り合って、結果としてひとつの混沌とした脅威となって主人公に襲いかかる。
その混沌の中身はやはり主人公同様に訳も分からぬままに勢力に取り込まれ、抜け出せない人々だ。
だがそれはむやみな暴力装置ではなく、むしろ「ひと握りの人々」のための社会秩序を維持するための仕組みであり、わたしたち多くの人にとっては不可侵の領域であるが、そうした勝手な理屈で成り立った社会制度に対する個人の怒りと抵抗が、この作品の動力源となっている。

監督の妻、ヴェラ・クルーゾーが「恐怖の報酬」「悪魔のような女」に引き続き監督の歪な愛に応える形で、精神疾患を持つ奔放な入院患者を己が存在を懸けるように強く美しく演じている。
本作は夫の作品のみに出演していた彼女の遺作である。
またマルティタ・ハント演じるなりすましの看護師コニーが、宮崎駿作品に出てきそうな、癖は強いが憎めない「婆ば」的な役柄で、不思議なユーモアを醸し出していた。
彼女だけは自分の立場をよく理解しており、混沌の中をそれなりに巧みに渡り歩いているように見える。
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