青雨

ミッドナイト・イン・パリの青雨のレビュー・感想・評価

ミッドナイト・イン・パリ(2011年製作の映画)
4.0
家族が集うときに僕はよく嘘をつく。それは、歴史であったり小説であったり何か思想的なことであったり、いかにもそういうことがあったということを、まことしやかに話す。

息子と妻は、ちゃんとその話を聞いてくれる。そして最後に「というのは嘘なんだけれど」と僕は言い、2人はため息をつくことになる。妻も息子も1人っ子で、僕は少年時代から、1人っ子たちのそうした「手もなく」というところを愛している。技巧を凝らしているのは僕であっても、人としては彼らのほうが大きい。そのことが嬉しい。

ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』を振り返ると、僕がいつも家族にしているその嘘に似ていると思う。彼が映画という嘘を通して、まことしやかに語るその衝動が、僕にはよく分かる。



1920年代のエコール・ド・パリの時代。ジャン・コクトー主催のパーティーでコール・ポーターのピアノに酔い、フィッツジェラルドとゼルダに胸のうずきを覚えながら、ヘミングウェイのタフさに燃え、ガートルード・スタインの洞察に感嘆し、ピカソの才能に驚愕する。モディリアーニとブラックを身近に感じながら、T・S・エリオットと車を共にしたのち、ダリやマン・レイと邂逅する。さらに過去へと遡れば、ベル・エポックを彩った、ロートレックやゴーギャンやドガたちと同席してみせる。

20世紀の芸術を形作った巨人たちのオンパレードで、しかも皆それぞれにいかにも言いそうなことを言う。その華麗さと可笑しみ。

ウディ・アレンのまことしやかな嘘。

語りが語りを生み、嘘が嘘を呼び、この人のイリュージョンは尽きることを知らない。もしも尽きてしまったなら、ありもしない虚空に彼は吸い込まれてしまう。信じることなど何もない虚無には、哀しみすら存在しない。

彼の作品には、目まぐるしく転回する中心部として、いつでも彼自身の自意識を投影するような虚無が宿っているように思う。だからこそ、映画という嘘へと向かった。映画という嘘のなかで、嘘をずっと回転させていくほうへ。

表層的な意味での幻想ではなく、真の意味での幻想についてたいへん自覚的な人のような気がする。
青雨

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