ケンヤム

お茶漬の味のケンヤムのレビュー・感想・評価

お茶漬の味(1952年製作の映画)
4.8
純粋な孤独は、大衆の中で何かに視線を投げかける時生まれるもので、本当にひとりでどこかにポツンと在る時は、人間は孤独ではなく誰もがひとりで在るというつながりを共有しているのだと思う。
小津安二郎は、そんな風に世の中を冷めきった視線で眺めていて、だから被写体である俳優たちはただ被写体でしかなく、そこにあるコップや茶碗と同等の存在として扱われている。
日本という島国。島国という密室で行き違う視線たち。
動かず、喋らない大衆。彼らはただ黙って同じ方向に視線を投げかけるだけだ。
戦時中の大衆たちは、あんな風だったんだろうと思う。
彼らは熱狂などしていなかったのだ。
ただ黙って同じ方向を向いていただけなのだ。
まるで、真っ暗な劇場で集ってスクリーンを見つめる私たちのように。
誰かと一緒にただ同じ方向を見るという行為は、絶対的に孤独な行為だ。
平行な視線は交わることがない。
そこに角度が加わった時、私たちは孤独ではなくなるのだと思う。
最後、停滞の場所としてしか存在しなかった家がダイナミックに動き出す。
お茶漬けを食べる夫婦。
シクシク、ワンワン泣いたと奥さんは言ったが彼らは何に泣いたのだろうか。
私たちは、交わることがないという絶望感か。
それとも、私たちの視線は交わることがないと気づいた諦めからくる開放感か。
島国という密室に住む私たちの視線が交わることがこれからもないとするなら、私たちは小津安二郎の映画を観て絶望を共有するしかない。
「大きい神様から見りゃ、どっちだっておんなじなんですよ」という底知れぬ絶望感で繋がるしかない。
人間のつながりなど相手に合わせて、白飯に汁をかけることでしかないという小津安二郎の冷めた視線にゾッとする。
ケンヤム

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