青雨

パルプ・フィクションの青雨のレビュー・感想・評価

パルプ・フィクション(1994年製作の映画)
5.0
ジャン=リュック・ゴダールが、同時代的にどれほどの衝撃を与えたのかを、僕はクエンティン・タランティーノを通して知ったところがある。作品としての肌合いは異なるものの、方法論としては同じ場所に彼らは立っている。

ゴダールにもタランティーノにも、過去の映画作品を浴びるように観たマニアとしての血が共通して流れており、何かにマニアックに夢中になった経験があれば、誰にでも分かる1つの事実があるように思う。

それは、オリジナルなものは、とうの昔に費(つい)えているということであり、物語やドラマとしては、遠くギリシャ時代に終わっているという見方もあれば、シェイクスピアの時代とする見方もある。いずれにせよ、大昔であることに変わりはない。

そして映像の世紀に入り、映画が生まれたときに、動画と音声によって何を語り得るのか。

ゴダールはそのことを知的に理解し、タランティーノは熱愛の深まりの底が抜けていくように、そこへ達したのではないか。実際の2人がどうであるかは、もちろん知りようがないものの、作品から受けとる作者としての成り立ちは、そのようになっているように感じる。

虚ろなものに意味があるように見せかけることと、意味がないことを自覚的に見せていくこととは大きく異なる。タランティーノとゴダールは、嘘がもつ意味さえ抜け出すように、映画を撮っている感覚がある。いつの時代でも、現代的であるということは、意味との戦いだということをこの2人は知っている。

すべてがイミテーションで、こんなにも完璧。

この『パルプ・フィクション』というタイトルが、そうしたいっさいを物語っている。それはたとえば、『ベイビー・ドライバー』(アンセル・エルゴート主演, 2017年)の主人公の青年が、録音した「Was He Slow?」という音声をリミックスして、音楽にするシーンを思わせる。

だからこそ、会話やダンスやハプニングなどすべてにビートが宿ることになり、ビンセント(ジョン・トラボルタ)とミア(ユマ・サーマン)のツイストに乗りながら、作品自身が踊るように展開していくことになる。意味や価値を抜け出そうとする運動感覚のなかにしか、意味や価値はない。

しかし、そうした現代性は現代的であるがゆえに、切っ先のような鋭さを虚空に描いたかと思うと、跡形もなく消えていく宿命も持っているのかもしれない。実際、タランティーノのフィルモグラフィを眺めてみても、『パルプ・フィクション』以降の作品からは、イミテーションとしての輝きが失われてしまっているように感じられる。

たしかに『キル・ビル』(2003年)は、複合的なイミテーションとしてのニューアイコンになり得たかもしれず、『ヘイトフル・エイト』(2015年)には、映像作品として充実した『レザボア・ドッグス』(1992年)を観るような成熟も感じる。けれど本作のように、現代性を突き抜けるように示せたものはないように思う。

いっぽう、監督としてこんな作品を撮ってしまえたなら、もう何も要らないだろうとも思う。フィルモグラフィの頂点が、晩年に向かって上昇していく例などほとんどないように、そうした判断は彼岸にある。
青雨

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