ケンヤム

パルプ・フィクションのケンヤムのレビュー・感想・評価

パルプ・フィクション(1994年製作の映画)
5.0
共犯関係という絆の物語だ。
プロローグとエピローグの間に、3つのオムニバスが複合して時間軸が交錯しながら、この映画は展開していくわけだけれど、「誰かと誰かが秘密を共有することになるまでの話」というところで、この映画のオムニバス的な物語は一本の串で通される。
そして、あの最後のエピローグでサミュエルL・ジャクソンは言うのだ。
「俺だって羊飼いになろうと努力している」

彼らは罪の共有でしか繋がれないこの物語の外に出ようとする。
それは、タランティーノの映画に対する態度でもあるのだと思う。
過去にあったバイオレンスなB級映画をサンプリングして繋ぎ合わせて、一流のエンターテイメントにしてしまうと言う営みは鑑賞者に対しての加害性と無縁ではいられない。
それでも心悪しきものとしての自覚を持ったタランティーノというシネフィル映画監督は、心正しき者であろうと必死に努力している。
いささかその意識は過剰でもあるのだが。
過剰であるが故に、黒人を西部劇の主演に据えて黒人差別の歴史そのものに復讐させてしまったり、ヒトラーという実在しながら映画史上最も形式化された悪役を、スクリーンに改めて引き摺り出して蜂の巣にしてしまったりする。
そういうタランティーノ映画の純真さが好きだ。
暴力とくだらなさの果てにある底知れぬ純真さが好きだ。

人間が何かを好きであろうとすること。
好きでいずにはいられないということ。
くだらなさの果てにある希望というか、繋がりというか。

タランティーノ映画にたびたび登場する銃を突きつけ合う三竦み。
あれは、緊張の共有によって成立する究極のコミュニケーションだ。
証拠に銃が画面に登場した瞬間、タランティーノ映画を蹂躙していた言葉はそこから消え失せ、純粋な緊張だけが画面を支配する。
その時、そこに言葉は必要なくなるのだ。
ただ純粋な暴力と緊張感のやりとりだけがそこでは求められる。
純真な暴力と緊張。
無意味な言葉の応酬が飽和状態に陥って、それが暴力でしかなくなる瞬間。
サミュエルL・ジャクソンはこの映画でそれを見事に体現しているのだが、その暴力を象徴しているようなキャラクターが「心正しき羊飼いになろうと努力している」と最後語るところが、とても感動的だ。

悪いやつが悪いやつのままでずーっと暮らしているわけではなく、そりゃ善人でいたい時だってあるし、誰しもそうありたいと願っているのだから「俺だって羊飼いになりたいよ」と語る彼を笑うことはできない。
とにかく、タランティーノ映画を観てそういう純真さに拘泥してしまう瞬間が好きだ。
俺が生まれるずーっとずーっと前から存在していた映画が、純粋にエンターテイメントとして俺の中に入ってくるような感覚が好きだ。
ケンヤム

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