このレビューはネタバレを含みます
14歳は〈ことば〉という知性を持たない。
14歳だって、オトナとおんなじ事を考えているんだけど、それは〈ことば〉にならない限り、他者に理解され共有されることはない。
「リリイ・シュシュ」という音楽がそう。音楽は「書き言葉」を持たないメディアだ。
文学と比べて、音楽が劣っているとは誰も言わない。しかし、音楽の分の悪さは、それは、口承伝統、すなわち「話し言葉」しか持たないアフリカの叡智が、「書き言葉」を持つヨーロッパによって、歴史を蹂躙されたのとまったく同じだ。「書き言葉」が歴史をつくり、政治を生む。
「エーテル」もけっきょく最後まで意味が明かされることはない。14歳の当事者たちには、なにか確かに意味がわかって使っているのだろうけれど、それも所詮、ネットの掲示板という世界の中でしか通用しない言語で、世界の外にいる他者にはわからない。
14歳は、政治から阻害されている。
市原隼人は、それを体現するように恐ろしく喋らない。
〈ことば〉から阻害された言動、すなわち、広義の「他者」によって理解されないものは、〈狂気〉と見做される。
これは14歳の話なんだろうか?
……オシャレ映画や鬱映画ではないんじゃない?
わからなかったのは、ドヴュッシーのアラベスク、最後の「ミ」がないこと、かな。