青眼の白龍

去年マリエンバートでの青眼の白龍のレビュー・感想・評価

去年マリエンバートで(1961年製作の映画)
4.4
 戦後フランスにおいて発生した前衛小説(ヌーヴォー・ロマン)を代表する作家アラン・ロブ=グリエが脚本を執筆し、『二十四時間の情事』(1959)のアラン・レネが監督を務めた作品。この映画の脚本を手がけるにあたって、ロブ=グリエが黒澤明の『羅生門』(1950)を下敷きにしたことは有名。1961年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。


●あらすじ
 迷宮のようなバロック式のホテルに集う裕福な客人たちは、連日テーブルを囲み、語りあい、演劇を観てすごしている。その生活は退屈であり、何の変化もない。ある男がひとりの女の前に現れる。彼らに名前はない。ただ、徹底した客観的手法によって情景が描写されてゆく。彼は女に「去年マリエンバートでお逢いしましたね」と語りかける。彼女には男と出会った記憶などない。だが、男は彼女の前にたびたび現れては「僕たちは去年愛しあい、一年後に再会する約束をしました」と過去の話を聞かせる。女は次第に自分の記憶に自信が持てなくなり、やがて「現在と過去」の境を失い始めるが……


●レビュー
 本作に漂う迷宮のような捉え難さは、一般的な映画の複雑さというより文学的な難解さに通じている。「脚本を担当したアラン・ロブ=グリエはヌーヴォー・ロマンを代表する作家である」と上で述べたが、ここで「新しい小説」とはどういったものなのか考えてみよう。ヌーヴォー・ロマンという概念は、Wikipediaで以下のように解説されている。

 作者の世界観を読者に「押しつける」伝統的小説ではなく、プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた、ある種の実験的な小説で、言語の冒険とよんでいい。(中略)読者は、与えられた「テクスト」を自分で組み合わせて、推理しながら物語や主題を構築していかざるを得ない。

 本作で用いられている演出は前衛文学の技法に近い。明確なストーリーは存在せず、家具を描写するように人間が描かれる。彼らに名前は与えられず、登場人物が抱く感情は希薄に見える。一方で、現実と過去の交差や各々の回想といった場面ごとにキャストの衣装・セットが変化する。文字どおり、観客は「与えられた映像を自分で組みあわせて、推理しながら物語や主題を構築していかざるを得ない」のである。ヌーヴォー・ロマンの流れの中で、ロブ=グリエが主張したのは「文法や語彙や文の配列、あるいは物語の全体的構造にこそ重点を置くべき」というものだった。我々はストーリーを語る上で「何を語るか」に焦点をあわせてしまいがちだが、本来はその構造に注目すべきだ。彼の描く世界は、起承転結や正常な時間の枠に囚われることはない。言葉から言葉へと移行し、イメージが新たなイメージとして出現する。それは非連続性を伴った物語であって、そこに曖昧さは存在しない。また、ロブ=グリエは映像表現について、その現在性を強く主張している。映画作品においてはスクリーンに映しだされた映像こそが「現在」であり、登場人物の回想や夢といった非現在的な場面であっても、未来を暗示するような場面であっても、それが「現在」と同一の視線で語られる限りそこに境界など存在しないという。つまり現実と非現実、あるいは現在と過去が混ざりあってしまうのだ。この点に関しては、ロブ=グリエ自身が「今日の小説における時間と描写」(『新しい小説のために』新潮社)という文章の中で次のように述べている。

「あの映画は記憶に救いを求めることを一切不可能にする、永遠の現在の世界である。
 彼らの存在は、映画がつづく間しか持続しない。目に見える映像、耳に聞こえる言葉以外に、現実はありえない」

 映画では絶対的な「現在」が語られる。回想の形式を取ろうが、夢の形式を取ろうが、それが客観的に真実であることに変わりない。男が女に対して「過去に起きたこと=二人が愛し合っていた」という話をした時、その映像はそのまま回想という形で観客に提示された。それは単なる映画的演出という域を超え、絶対的な現在、すなわち真実となったのだ。あるいは男が女性に語った夢のような過去は、最初から虚構ではなかったのかもしれない。だが与えられたテクスト、映像でしか真実を認識できない観客には、その真偽を確かめる術などないのである。

 冒頭で本作の難解さを「迷宮のような」と表現したが、この比喩は作品の雰囲気をよく表している。映画が始まると数分間、淡々と荘厳なバロック風ホテルの内部が映しだされる。登場人物の衣装は全てココ・シャネルによって手がけられている。白黒の映像が、美しい迷宮を隅々まで描写する。これまで考察してきたように、この映画には物語らしい物語は存在しない。何を語るかではなく、いかにして語るか。台詞らしい台詞もなく、起承転結もないまま映画は終わる。最後には、入り組んだ時間だけが残る。まさに時間の迷宮と呼ぶにふさわしい。
 最後に、ロブ=グリエの言葉をもう一文だけ引用したい。

「重要性を持つ唯一の時間が、このフィルムの映写時間であるように、重要な唯一の<人物>は観客なのである。
 この物語の全体が繰り広げられるのは、観客の頭の中なのである。この物語は、まさしく彼によって想像される」


(以前書いた個人ブログより修正・転載しました)