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アメリカン・サイコのsghrytのレビュー・感想・評価

アメリカン・サイコ(2000年製作の映画)
4.0
爆笑コメディ。名刺対決はもはや伝説。

他者が存在しなければ自己も存在しない、これが人間の存在様式だ。それだから、自分にとって相手が誰でもいい存在ならば、自分にとってその相手は誰でもない存在になる。そして、お互いにそう感じているのであれば、そこには誰もいないのである。あるいは、nobodyがいる。

本作の舞台はそういう世界、つまり誰もいない世界である。しかし、ほんの僅かでも正気が残っている人間はそこで不安を抱く。果たして私は誰なのか、自分は存在しているのかと。

主人公は誰かーーここでも誰でもいいわけだがーーを殺すことで、自分の存在を必死に確かめようとする。が、確かめ切れない。たしかに誰かを殺す瞬間には自分が存在している手応えを感じるが、それは素手で掴んだ鰻を掴み切れないように、たちまち手の平からこぼれ落ちて感触を失ってしまう。思い通りに殺せる他人は「他者」ではないからだ。逃げる娼婦を追いかける主人公が嬉々としているのは、思い通りにならない「他者」に出会ったからだが、思い通りに殺してしまったらゲームは終わりである。だから、目的を果たした後にしょんぼりするわけだ。

主人公が自己の存在を確信しうる手がかりは彼を慕うーーつまり彼をnobody(誰でもいい=誰でもない存在)ではなくonlyone(その人でなければらない特別な存在)として向き合っている女性秘書にある。しかし主人公にとって彼女はnobodyであり、その手がかりに気づかない。

最終的に主人公は大量殺人を犯すが、大量殺人犯にはなれない。世界にとって彼は相変わらずnobodyなので、nobody commits the crimes, nobody is the criminal ということになるわけだ。そして、彼はnobodyとして生きていくことを受け入れる。

主人公の行動は狂気の沙汰に見えるが、それは実は正気の沙汰なのである。それだから、サイコパスは狂気の沙汰(=正気の沙汰)を仕出かす主人公ではなく、そういうことすらしないでnobodyであることに順応している脇役たちなのである。
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